51 歴代天皇
 
 51 平城ヘイゼイ天皇
 
 平安初期の天皇。桓武天皇の第一皇子。名は安殿アテ。奈良帝ナラノミカドとも。病により嵯
峨天皇に譲位。尚侍藤原薬子クスコの変により落飾。
(在位806〜809)(774〜824)
 大同ダイドウ 皇紀1466 AD 806
 
〔神皇正統記〕 第五十一代、平城天皇は桓武第一の子。御母皇太后藤原の乙牟漏ヲトムロ、
贈太政大臣良継ヨシツグの女也。丙戌年即位、改元。平安宮ヘイアングウにまします(これより
遷都なきによりて御在所をしるすべからず)。
 天下を治給こと四年。太弟タイテイにゆづりて太上天皇と申。平城の旧都にかへりてすま
せ給けり。尚侍ナイシノカミ藤原の薬子クスリコを寵チョウシましけるに、其弟参議右兵衛督ウヒャウエノカミ
仲成ナカナリ等申すゝめて逆乱ゲキランの事ありき。田村丸を大大将として追討せられしに、平
城の軍イクサやぶれて、上皇出家せさせ給。御子東宮高岡の親王もすてられて、おなじく出
家、弘法大師の弟子になり、真如シンニョ親王と申はこれなり。薬子・仲成等誅にふしぬ。上
皇五十一歳までおましましき。
 
 52 嵯峨サガ天皇
 
 平安初期の天皇。桓武天皇の皇子。名は神野カミノ。「弘仁格式」「新撰姓氏録ショウジロク
」を編纂せしめ、漢詩文に長じ、「文華秀麗集」「凌雲集」を撰せしめた。書道に堪能
で、三筆の一。
(在位809〜823)(786〜842)
 弘仁コウニン 皇紀1470 AD 810
 
〔神皇正統記〕 第五十二代、第二十九世、嵯峨天皇は桓武第二の子、平城同母の弟也。
太弟に立給へりしが、己丑年即位。庚寅に改元。此天皇幼年より聡明にして読書トクショを
好コノミ、諸芸を習給。又謙譲の大度タイドもましましけり。桓武帝鍾愛無双ショウアイブサウの御
子になむおはしける。儲君チョクンにゐ給けるも父のみかど継体のために顧命コメイしましまし
けるにこそ。格式キャクシキなども此御時よりえらびはじめられにき。又深フカク仏法をあがめ
給。先世サキノヨに美濃国神野カムノと云所にたうたき僧ありけり。橘太后キツタイコウの先世に懇に
給仕キフジしけるを感じて相共に再誕サイタンありとぞ。御諱を神野と申けるも自然ジネンにか
なへり。
 
 伝教(御名最澄)・弘法(御名空海)両大師唐より伝給し天台・真言の両宗も、この御
時よりひろまり侍ける。此両師直也人タダナルヒトにおはせず。
 伝教入唐以前より比叡山のひらきて練行レンギャウせられけり。今の根本コンポン中堂チュウダウ
の地をひかれけるに、八の舌ある鎰カギをもとめいでて唐までもたれり。天台山にのぼり
て智者チシャ大師(天台の宗おこりて四代の祖なり。天台大師とも云)六代の正統道邃
ダウスイ和尚ワシャウに謁して、その宗をならはれしに、彼山に智者帰寂キジャクより以来コノカタ鎰
をうしなひてひらかざる一蔵ヒトツノクラありき。心見に此鎰にてあけらるゝにとゞこほらず。
一山イッサンこぞりて渇仰カツガウしけり。仍一宗イッシュウの奥義のこる所なく伝られたりとぞ。
其後慈覚・智証大師又入唐して天台・真言をきはめならひて、叡山にひろめられしかば、
彼門風モンフウいよいよさかりになりて天下に流布せり。唐国みだれしより経教キャウケウおほく
うせぬ。道邃より四代にあたれる義寂ギジャクと云人まで、たゞ観心クワンジンを伝て宗義を
あきらむることたえにけるにや。呉越ゴエツ国の忠懿王チュウイワウ(姓は銭セン、名は鏐リウ、唐
の末つかたより東南の呉越を領して偏覇ヘンパの主たり)此宗のおとろへぬることをなげ
きて、使者十人をさして、我朝にをくり、教典をもとめしむ。ことごとくうつしをはり
てかへりぬ。義寂これを見あきらめて、更に此宗を再興す。もろこしには五代ゴダイの
中、後唐コウタウの末ざまなりければ、我朝には朱雀スザク天皇の御代にやあたりけむ。日本
よりかへしわたしたる宗なれば、此国の天台宗はかへりて本ホンとなるなり。凡伝教彼宗
の秘密を伝られたることも(唐タウノ台州刺史タイシウシシ陸淳リクジュンが印記インキの文モンにあり)
ことごとく一宗の論疏ロンショをうつし、国にかへれることも(釈志磐シャクシバンが仏祖統紀
トウキにのせたり)異朝の書に見えたり。
 
 弘法は母懐胎の始、夢に天竺の僧来りて宿をかり給けりとぞ。宝亀五年甲寅六月十五
日誕生。この日唐の大暦タイレキ九年六月十五日にあたれり。不空三蔵フクウサンザウ入滅す。仍
かの後身コウシンと申也。かつは恵果ケイクワ和尚の告ツゲにも「我と汝と久ヒサシキ契約あり。誓て
密蔵ミツザウを弘ヒロメン。」とあるも其故にや。渡唐の時も或は五筆ゴヒツの芸をほどこし、さ
まざまの神異シンイありしかば、唐の主、順宗ジュンソウ皇帝ことに仰信ギャウシンし給き。彼恵果
(真言第六の祖、不空の弟子)和尚六人の附法フホフあり。剣南ケンナンの惟上ユイシャウ・河北の義
円ギエン(金剛一界を伝)、新羅の恵日エニチ・訶陵カリョウの弁弘ベンコウ(胎蔵一界を伝)、青竜
セイリョウの義明ギメイ・日本の空海(両部を伝)。義明は唐朝におきて潅頂クワンチャウの師たるべ
かりしが世をはやくす。弘法は六人の中に瀉瓶シャビャウたり(恵果の俗弟子呉殷ゴインが纂
サンの詞コトバにあり)。しかれば、真言の宗には正統なりといふべきにや。これ又異朝の
書に見えたる也。伝教も、不空の弟子順暁ジュンゲウにあひて真言を伝られしかど、在唐い
くばくもなかりしかば、ふかく学せられざりしにや。帰朝の後、弘法にもとぶらはれけ
り。又いまこの流たえにけり。慈覚・智証は恵果の弟子義操ギサウ・法潤ホフジュンと聞えしが
弟子法全ハッセンにあひて伝らる。
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