31 歴代天皇
 
 31 用明ヨウメイ天皇
 
 6世紀末の天皇。欽明天皇の第四皇子。聖徳太子の父。皇后は穴穂部間人アナホベノハシヒト皇
女。名は橘豊日タチバナノトヨヒ。皇居は大和国磐余イワレの池辺双槻宮イケノヘノナミツキノミヤ。在位中は
蘇我馬子と物部守屋が激しく対立。
(在位585〜587)( 〜587)
 皇紀1245 AD 585
 
〔神皇正統記〕 第三十二代、用明天皇き欽明第四の子。御母堅塩姫キタシヒメ、蘇我ソガの
稲目イナメノ大臣オホオミの女也。豊日トヨヒの尊と申。厩戸の皇子の父におはします。丙午ヒノエウマノ
年即位。大和の池辺イケノヘノ列根ナミツキの宮にまします。仏法をあがめて、我国に流布せむと
し給けるを、弓削ユゲノ守屋モリヤの大連ヲホムラジかたむけ申、つゐに叛逆ホンギャクにをよびぬ。
厩戸の皇子、蘇我の大臣と心を一にして誅戮チュウリクせられ、すなはち仏法をひろめられに
けり。
 天皇天下を治給こと二年。四十一歳おましましき。
 
 32 崇峻スシュン天皇
 
 6世紀末の天皇。欽明天皇の皇子。名は泊瀬部ハツセベ。皇居は大和国倉梯クラハシの柴垣宮。
蘇我馬子の専横を憤り、これを倒そうとして、かえって馬子のために暗殺された。
(在位587〜592)( 〜592)
 皇紀1247 AD 587
 
〔神皇正統記〕 第三十三代、崇峻天皇は欽明第十二の子。御母小姉君コアネキミの娘イラツメ。
これも稲目の大臣の女也。戊申ツチノエサルノ年即位。大和の倉橋クラハシの宮にまします。天皇横
死ワウシの相サウ見え給。つゝしみますべきよしを厩戸の皇子奏ソウシ給けりとぞ。
 天下を治給こと五年。七十二歳おましましき。
 或人の云、外舅ハハカタノヲヂ蘇我の馬子ウマコノ大臣と御中あしくして、彼大臣のためにころ
され給きともいへり。
 
 33 推古スイコ天皇
 
 6世紀末・7世紀初の天皇。最初の女帝。欽明天皇の第三皇女。母は堅塩媛キタシヒメ(蘇我
稲目の娘)。敏達天皇の皇后。名は豊御食炊屋姫トヨミケカシキヤヒメ。また、額田部ヌカタベ皇女。
崇峻天皇暗殺の後を受けて大和国の豊浦宮トユラノミヤで即位。後に同国の小墾田宮オハリダノミヤ
に遷る。聖徳太子を摂政とし、冠位十二階の制定・十七条憲法の発布などを行う。
(在位592〜628)(554〜628)
 皇紀1252 AD 592
 
〔神皇正統記〕 第三十四代、推古天皇は欽明の御女、用明同母の御妹也。御食炊屋姫
ミケカシヤヒメの尊と申。敏達天皇皇后とし給(仁徳も異母の妹を后とし給ことありき)。崇峻
かくれ給しかば、壬丑ミヅノエウシノ年即位。大倭の小墾田ヲハリタの宮にまします。
 
 昔神功皇后六十余年天下を治給しかども、摂政と申て、天皇とは号したてまつらざる
にや。此みかどは正位シャウイにつき給にけるにこそ。即スナハチ厩戸の皇子を皇太子として万
機の政マツリコトをまかせ給、摂政と申き。太子の監国ケンコクと云こともあれど、それはしばら
くの事也。これはひとへに天下を治給けり。
 
 太子聖徳セイトクましまししかば、天下の人つくこと日の如く、仰ぐこと雲の如し。太子
いまだ皇子にてましましし時、逆臣守屋を誅し給しより、仏法始て流布しき。まして政
をしらせ給へば、三宝を敬ウヤマヒ、正法をひろめ給こと、仏世ブッセにもことならず。又神
通ジンヅウ自在にましましき。御身づから法服を着して、経キャウを講じ給しかば、天より花
をふらし、放光動地ハウクワウドウチの瑞ズイありき。天皇・群臣、たうとびあがめ奉ること仏の
ごとし。伽藍ガランをたてらるゝ事四十余ケ所にをよべり。又此国には昔より人すなほに
して法令ハフリャウなむどもさだまらず。十二年甲子キノエネにはじめて冠位クワンイといふことをさ
だめ(冠のしなによりて、上下カミシモをさだむるに十八階あり)、十七年己巳ツチノトミに憲法
十七ケ条をつくりて奏し給。内外典ナイゲテンのふかき道をさぐりて、むねをつゞまやかに
してつくり給へるなり。天皇悦て天下に施行シカウせしめ給き。
 
 此ころおひは、もろこしには隋ズイの世なり。南北朝相分アヒワカレしが、南は正統をうけ、
北は戎狄ジュウテキよりおこりしかど、中国をば北朝にぞおさめける。隋は北朝の後周コウシウ
と云しがゆづりをうけたりき。後に南朝の陳チンをうちたひらげて、一統の世となれり。
此天皇の元年癸丑ミヅノトウシは文帝ブンテイ一統の後四年也。十三年乙丑キノトウシは煬帝ヤウダイの
即位元年にあたれり。彼国よりはじめて使ををくり、よしみを通じけり。隋帝の書に「
皇帝恙ツツシムデ問倭皇ワクワウニトウ。」とありしを、これはもろこしの天子の諸侯王につかはす
礼儀なりとて、群臣あやしみ申けるを、太子ののたまひけるは、「皇の字はたやすく用
ざる詞コトバなれば」とて、返報ヘンポウをもかゝせ給、さまざま饗禄キャウロクをたまひて使を
返しつかはさる。是より此国よりもつねに使をつかはさる。其使を遣隋大使ケンズイタイシと
なむなづけられしに、二十七年己卯ツチノトウの年、隋滅て唐タウに世にうつりぬ。二十九年辛
巳カノトミの年太子かくれ給。御年四十九。天皇をはじめたてまつりて、天下の人かなしみ
おしみ申こと父母に喪モするがごとし。皇位をもつぎましますべかりしかども、権化の御
ことなれば、さだめてゆへありけむかし。御諱イミナを聖徳シャウトクとなづけ奉る。
 
 この天皇天下を治給こと三十六年。七十歳おましましき。
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