34 歴代天皇
34 舒明ジョメイ天皇
飛鳥時代の天皇。押坂彦人大兄皇子(敏達天皇の皇子)の第一王子。名は息長足日広
額オキナガタラシヒヒロヌカ、また田村皇子。皇居は大和国飛鳥の岡本宮。
(在位629〜641)(593〜641)
皇紀1289 AD 619
〔神皇正統記〕 第三十五代、第二十四世、舒明天皇は忍坂大兄オシサカオホエの皇子の子、敏
達の御孫也。御母糠手姫ヌカテヒメの皇女、これも敏達の御女なり。推古天皇は聖徳太子の御
子に伝給はむとおぼしめしけるにや。されどもまさしき敏達の御孫、欽明の嫡曽孫
チャクソウソンにまします。又太子御病にふし給し時、天皇此皇子を御使としてとぶらひましし
に、天下のことを太子の申付マヲシツケ給へりけるとぞ。癸丑ミヅノトウシノ年即位。大倭の高市
タケチノ郡コホリ岡本の宮にまします。此即位の年は、異朝唐の太宗のはじめ、貞観ヂャウグワン三
年にあたれり。
天下を治給こと十三年。四十九歳おましましき。
35 皇極コウギョク天皇
7世紀前半の天皇。茅渟王チヌノオオキミの第一王女。舒明天皇の皇后。天智・天武天皇の母。
名は天豊財重日足姫アメトヨタカライカシヒタラシヒメ、また宝皇女。皇居は飛鳥の板蓋宮イタブキノミヤ。孝
徳天皇に譲位。のち重祚して斉明天皇。
(在位642〜645)(594〜661)
皇紀1302 AD 642
〔神皇正統記〕 第三十六代、皇極天皇は茅渟チヌノ王の女、忍坂大兄の皇子の孫、敏達の
曽孫也。御母吉備姫キビヒメの女王と申き。舒明天皇皇后とし給。天智・天武の御母なり。
舒明かくれまして皇子おさなくおはしまししかば、壬寅ミヅノエトラの年即位。大倭明日香河
原カハラの宮にまします。
此時に蘇我ソガノ蝦夷エヒスの大臣オホオミ(馬子の大臣の子)ならびに其の子入鹿イルカ、朝権
テウウケンを専モハラにして皇家クワウケをないがしろにする心あり。其家を宮門ミカドと云、諸子を
王子となむ云ける。上古シャウコよりの国紀重宝コクキチョウホウみな私家ワタクシノイヘにはこびをきけ
り。中にも入鹿悖逆ハイゲキの心はなはだし。聖徳太子の御子達のとがなくましまししをほ
ろぼしたてまつる。こゝに皇子中ナカの大兄オホエと申は舒明の御子、やがて此天皇御所生
ゴショシャウ也。中臣ナカトミの鎌足カマタリの連ムラジと云人と心を一にして入鹿をころしつ。父蝦夷
エミシも家に火をつけてうせぬ。国紀重宝はみな焼にけり。蘇我の一門久く権をとれりしか
ど、積悪シャクアクの故にやみな滅ぬ。山田石川丸イシカハマルと云人ぞ皇子と心をかよはし申けれ
ば滅せざりける。此鎌足の大臣は天児屋根の命二十一世ノ孫也。昔天孫アメミマあまくだり給
し時、諸神の上首ジャウシュにて、此命、殊に天照太神の勅ミコトノリをうけて輔佐フサの神にまし
ます。中臣といふことも、二フタハシラノ神の御中にて、神の御心をやはらげて申給ける故也
とぞ。其孫天種子アメノタネコの命、神武の御代に祭事マツリコトをつかさどる。上古は神と一にま
しまししかば、祭をつかさどるは即スナハチ政をとれるなり(政の字の訓にても知るべし)。
其後天照太神、始て伊勢国にしづまりましし時、種子の命のすゑ大鹿島オホカシマの命祭官
サイクワンになりて、鎌足大臣の父(小徳冠セウトククワン)御食子ミケコまでもその官につかへたり。
鎌足にいたりて大勲タイクンをたて、世に寵せられしによりて、祖業ソゲフをおこし先烈を栄
サカヤカされける、無止ヤンゴトナキことなり。かつは神代よりの余風なれば、しかるべきことは
りとこそおぼえ侍れ。後に内臣ウチツオミに任じ大臣に転じ、大織冠タイショククワンとなる(正一位
の名なり)。又中臣をあらためて藤原フヂハラの姓シャウを給らる(内臣に任ぜらるゝ事は此
御代にはあらず。事の次ツイデにしるす)。
此天皇天下を治給こと三年ありて、同母の御弟軽カルの王に譲給。御名を皇祖母スメミオヤの
尊とぞ申ける。
裏書ニ云。
鎌足名一名鎌子。大化元年内大臣に任ず、年三十一。天智天皇八年十月大織冠を授け
大臣に任じ、姓を改めて藤原と為す。同年同月辛酉薨。年五十六。在官二十五年。天皇
親臨哀泣して哀云々。
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