21 歴代天皇
 
 21 雄略ユウリャク天皇
 
 5世紀後半の天皇。允恭天皇の第五皇子。名は大泊瀬幼武オオハツセワカタケル。対立する皇位継
承候補を一掃して即位。478年中国へ遣使した倭王「武」、また辛亥(471年か)の銘の
ある埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣に見える「ワ加多支鹵ワカタケル大王」に比定される。
 皇紀1116 AD 456
 
〔神皇正統記〕 第二十二代、雄略天皇は允恭第五ノ子、安康同母の弟也。大泊瀬オホハツセノ
尊と申。安康ころされ給し時、眉輪の王及オヨビ円の大臣を誅チュウせらる。あまさへ其事に
くみせられざりし市辺押羽イチベノヲシハノ皇子をさへにころして位に即ツキ給。ことし丁酉
ヒノトトリの年也。大和の泊瀬朝倉アサクラの宮にまします。天皇性セイ猛タケクましましけれども、
神に通じ給へりとぞ。
 
 二十一年丁巳ヒノトミ冬十月カンナヅキに、伊勢の皇太神スメオホカミ大和姫の命にをしへて、丹波
国与佐ヨサの魚井マナイの原よりして豊受トヨウケの太神を迎へ奉らる。大和姫の命奏聞ソウモンし給
しによりて、明年アクルトシ戊午ツチノエウマの秋七月フミヅキに勅使チョクシをさしてむかへたてまつる。
九月ナガツキに度会ワタラヒの郡コホリ山田の原の新宮シングウにしづまり給。垂仁天皇の御代に、皇
太神五十鈴の宮に遷らしめ給しより、四百八十四年になむなりける。神武の始よりはす
でに千百余年になりぬるにや。又これまで大倭姫の命存生ゾンシャウし給しかば、内外宮
ナイゲクウのつくりも、日の小宮ワカミヤの図形ヅギャウ・文形モンギャウによりてなさせ給けりとぞ。
 
 抑ソモソモ此神の御事異説まします。外宮には天祖アマツミオヤ天御中主アメノミナカヌシの神と申マヲシ伝
ツタヘたり。されば皇太神の託宣にて、此宮の祭を先にせらる。神拝カミヲガミ奉るも先づ此宮
を先とす。天孫アメミマ瓊々杵の尊此宮の相殿アヒドノにまします。仍ヨリテ天児屋アメノコヤネの命・天
太玉アメノフトタマの命も天孫につき申て相殿にますなり。これより二所フタトコロノ太神宮と申。丹
波より遷らせ給ことは、昔豊鋤入姫の命、天照太神を頂戴して、丹波の吉佐ヨサの宮にう
つり給ける比コロ、此神あまくだりて一所ヒトツトコロにおはします。四年ありて天照太神は又
大和にかへらせ給。それより此神は丹波にとまらせ給しを、道主ミチヌシの命と云人いつき
申けり。古イニシヘは此宮にて御饌ミケをとゝのへて、内宮ナイクウへも毎日にをくり、奉しを、
神亀ジンキ年中より外宮に御饌殿ミケドノをたてて、内宮のをも一所にて奉タテマツルとなむ。か
やうの事によりて、御饌の神と申説あれど、御食ミケと御気ミケとの両義あり。陰陽元初
ゲンショの御気なれば、天の狭霧サギリ・国の狭霧と申御名もあれば、猶さきの説を正シャウとす
べしとぞ。天孫さへ相殿にましませば、御饌の神といふ説は用モチイがたき事にや。
 
 此天皇天下を治給こと二十三年。八十歳おましましき。
 
 22 清寧セイネイ天皇
 
 5世紀末の天皇。雄略天皇の第三皇子。名は白髪シラカ、諡オクリナは武広国押稚日本根子タケ
ヒロクニオシワカヤマトネコ。
 皇紀1140 AD 480
 
〔神皇正統記〕 第二十三代、清寧天皇は雄略第三の子。御母韓姫カラヒメ、葛城の円ツブラ
の大臣の女なり。庚申カノエサルの年即位。大倭の磐余イハレノ甕栗ミカクリの宮にまします。誕生の
始、白髪おはしければ、しらかの天皇とぞ申ける。
 
 御子なかりしかば、皇胤クワウインのたえぬべき事を歎給て、国々へ勅使をつかはして皇胤
を求らる。市辺イチベの押羽オシハの皇子、雄略にころされ給しとき、皇女一人、皇子二人ま
しけるが、丹波国にかくれ給けるを求出モトメイデて、御子にしてやしなひ給けり。
 天下を治給こと五年。三十九歳おましましき。
 
 23 顕宗ケンゾウ天皇
 
 5世紀末の天皇。履中リチュウ天皇の皇孫。磐坂市辺押磐イワサカノイチノベノオシワ皇子の第二王子。
名は弘計オケ。父が雄略天皇に殺された時、兄(仁賢天皇)と共に播磨に逃れたが、後に
発見されて即位したと云う。
 皇紀1145 AD 485
 
〔神皇正統記〕 第二十四代、顕宗天皇は市辺押羽の皇子第三の子、履中天皇ノ孫也。御
母夷(草冠の夷)媛ハエヒメ、蟻アリの臣オミノ女也。白髪シラカノ天皇養て子とし給ふ。
 
 御兄コノカミ仁賢ニンケン先マヅ位に即給べかりしを、相共に譲ましまししかば、同母の御姉飯
豊イヒトヨの尊しばらく位に居給き。されどやがて顕宗定りましまししによりて、飯豊天皇
をば日嗣にはかぞへたてまつらぬなり。乙丑キノトウシの年即位。大和の近明日香チカツアスカ八釣
ヤツリの宮にます。
 天下を治給こと三年。四十八歳をましましき。
 
 24 仁賢ニンケン天皇
 
 5世紀末の天皇。磐坂市辺押磐イワサカノイチノベノオシワ皇子の第一王子。名は億計オケ。父が雄略
天皇に殺された時、弟(顕宗天皇)とともに播磨に逃れた。後に清寧天皇の皇太子とな
り、弟に次いで即位したと云う。
 皇紀1148 AD 488
 
〔神皇正統記〕 第二十五代、仁賢天皇は顕宗同母の御兄也。雄略の我父の皇子をころ
し給しことをうらみて、「御陵ミサザキをほりて御屍カバネをはづかしめん。」との給しを、
顕宗いさめましまししによりて、徳のをよばざることをはぢて、顕宗をさきだて給けり。
戊申ツチノエサルの年即位。大和の石上イソノカミ広高ヒロタカの宮にまします。
 天下を治給こと十一年。五十歳をましましき。
 
 25 武烈ブレツ天皇
 
 5世紀末の天皇。仁賢天皇の第一皇子。名は小泊瀬稚鷦鷯オハツセノワカサザキ。
 皇紀1158 AD 498
 
〔神皇正統記〕 第二十六代、武烈天皇は仁賢の太子。御母大娘オホイラツメの皇女、雄略の
御女也。己卯ツチノトウの年即位。大和の泊瀬列城ハツセナミキの宮にまします。
 
 性セイさがなくまして、悪アクとしてなさずといふことなし。仍天祚アマツヒツギも久からず。
仁徳さしも聖徳ましましに、これ皇胤こゝにたえにき。「聖徳は必百代にまつらる。」
(春秋に見ゆ)とこそ見えたれど、不徳の子孫あらば、其宗ソウを滅すべき先蹤センショウ甚
ハナハダをほし。されば上古シャウコの聖賢は、子なれども慈愛におぼれず、器ウツハモノにあらざ
れば伝ツタフルことなし。尭ゲウの子丹朱タンシュ不肖なりしかば、舜シュンにさづけ、舜の子商均
シャウキン又不肖にして夏カの禹ウに譲られしが如し。尭舜よりこなたには猶天下を私ワタシにす
る故にや、必子孫に伝ことになりしが、禹の後、桀ケツ、暴虐にして国を失ひ、殷インの湯
トウ聖徳ありしかど、紂チウが時、無道ブタウにして永くほろびにき。天竺にも仏滅度メツド百
年の後、阿育アイクと云王あり。姓は孔雀クジャク氏、王位につきし日、鉄輪テチリン飛降る。転
輪テンリンの威徳をえて、閻浮提エンブダイを統領す。あまさへ諸の鬼神キジンをしたがへたり。
正法シャウボフを以て天下をおさめ、仏理に通じて三宝サンボウをあがむ。八万四千の塔を立
て、舎利を安置し、九十六億千の金コガネを棄て功徳に施セする人なりき。其三世サンセイノ孫
弗沙密多羅フシャミッタラ王の時、悪臣のすゝめによって、祖王ソワウの立たりし塔婆タフバを破壊
ハエせんといふ悪念アクネンをおこし、もろもろの寺をやぶり、比丘ビクを殺害す。阿育王のあ
がめし奚(奚偏+隹)雀寺ケイジャクジの仏牙歯ブツゲシの塔をこぼたむとせしに、護法神
ゴホフジンいかりをなし、大山タイセンを化ケして王及び四兵シヒャウを衆ををしころす。これより
孔雀の種永ナガク絶にき。かゝれば先祖大オホキなる徳ありとも、不徳の子孫宗廟ソウベウのま
つりをたゝむことうたがひなし。
 
 此天皇天下を治給こと八年。五十八歳をましましき。
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