04 中国名著解題1
中国名著解題
参考:金園社発行「ことわざ事典」
晏子アンシ春秋
春秋時代の斉の賢宰相晏嬰アンエイの言行を後の人が書き綴ったもので,内編六編,外編
二編計八編からなっている。文章は堅く古めかしいが,古文中では名著とされている。
単に「晏子」とも云う。
伊洛淵源録イラクエンゲンロク
宋の朱憙の撰した十四巻の書である。これは周子以下程子に及ぶまでの交友や門弟達
の言行を記したものである。
尉繚子ウツリョウシ
周の尉繚の著した書で,二十四編から成っている。これは古代からの戦術戦略の要訣,
格言を総合したもので,主として正攻法を説き,「孫子」の兵法書も及ばない,とさ
え云われている。
易経エキキョウ
儒家の教典六経(詩経・書経・易経・春秋・礼記・楽経)の一つで,古代の占筮センゼイ
(うらない)の書。天文・地文・人事・物象を陰陽に観察した説を立てたもので,上
・下経と十翼とから成る。上・下経は,伏義に始まり神農氏・文王を経て,周公が大
成したもので,十翼は孔子が著したものと云われている。もと吉凶・福禍を占うため
のものであったが,十翼ができて倫理,哲学の意義を生じたもので,周代に至って大
成したから「周易」とも云う。
越絶書エツゼツショ
中国の春秋時代の呉ゴと越エツの興亡の始末を書いた本。作者不明。
淮南子エナンジ
漢の淮南王劉安リュウアンの編纂した二十一巻の書を云う。老荘の思想に基づき,儒家の思
想をまじえ,古今の治乱興亡,吉凶禍福を説き,また社会の奇聞なども収載してある。
百科全書的な書。
淵鑑類函エンカンルイカン
清の聖祖の勅命を奉じて,張英,除秉,蔡升元・沈涵等が分担して編纂した四百五十
巻の書を云う。これは古今の類書を集録してあり,故事・古典の探究には欠かせない
好資料である。
塩鉄論エンテツロン
漢の桓寛コウカンの編纂した十二巻六十編の書。漢の武帝のとき,桑弘羊ソウコウヨウ等が国の
財政難打開のため,収益を増加させるということから,塩や鉄を政府の専売制度にし
たので,人民は大いに苦しんだ。次いで昭帝が帝位に就くと,諸国から選出された賢
良の文学の士を集め,桑羊とその是非を議論させた意見を集めたもので,経世実用に
資するところが多く,後世に至って高く評価されている。
開元遺事
「開元天宝遺事」の略,五代の王仁裕オウジンユウが編纂したもので,四巻から成ってい
る。仁裕は初め蜀に仕えて翰林学士となったが,蜀の滅亡後は長く長安に住み,民間
に伝わる唐の玄宗のときの遺事記を辿って記したものである。史実と云うよりは小説
に近いものである。
鶴林玉露カクリンギョクロ
宗の羅大経(廬陵の人)が編纂した十六巻の書で,天・地・人の三集に分け,文士・
道学者・山人の言葉を記したものである。その文体は詩話,語録,小説の間の随筆風
なもので,議論に詳しく考証は簡略である。
月令広義ガツリョウコウギ
明の馮応京ヒョウオウキョウが編纂した二十五巻の書を云う。これは先に秦の呂不韋が集めた
十二ケ月の年中行事の書を解説したものである。
管子カンシ
春秋時代の斉の管仲カンチュウが編纂した二十四巻の書を云う。これは管仲自撰のままでは
なく,後人の付加したものが多いと観られている。管仲は桓公カンコウを助けて天下に覇
を唱えさせた人。その政治の根本は,斉の始祖である太公の制度を参考とし,富国強
兵の制を布き,また礼儀,廉恥を重んじた。管仲は若年の頃より鮑叔と親交が深く「
管鮑の交わり」と云う故事の,その本人である。巻頭の牧民編に「倉廩ソウリン実ミちて即
ち礼節レイセツを知り,衣食足りて即ち栄辱エイジョクを知る」とあるのを観てもその人格が
判る。
韓詩カンシ外伝
前漢の韓嬰が編纂した十巻の書を云う。これは詩句を引用し,古事古語を挙げて解説
してある。「詩経シキョウ」の注釈書。
顔氏ガンシ家訓カクン
春秋時代の北斉の人顔之推ガンシスイの撰した二巻二十編の書を云う。これは題名の示す
ように子孫に立身家の法や世俗の謬アヤマりを指摘訓戒するのがその主意である。つまり
その説くところは,よく世の風俗,人情に触れ,利益を明らかにし,聖賢の教訓を引
いて適切に戒めている。
漢書カンジョ
後漢の班彪ハンピョウ,その子固コ,固の妹昭ショウの父子三人の手に依って完成した百二十
巻の書を云う。前漢の高祖より平帝の元始五年に至る十二代二百三十年間の史実を十
二紀,八表・十志・七十列伝に分けて記してある。「史記」に次ぐ史書として重視さ
れている。その体裁はやや整っているが,史記に比べてその文は劣っている。漢書を
二つに分けて「前漢書」「西漢書」と呼ぶこともある。
桓譚カンタン新輪
「桓子新論」とも云い,後漢の桓譚が撰した一巻を云う。これは古式を基にして,後
世の誤りを正すことを目的としたもので,その内容は多方面に亘っている。
韓非子カンピシ
戦国時代末の韓非が編纂した二十巻五十五編の書である。後人の作も入っている。元
は単に韓非と云ったが,宋以後韓退之カンタイシと区別するため,「韓非子」と称するよう
になった。韓非子は韓の諸公子で,刑名,法術の学を学び,韓が衰えかかったのを観
て,屡々書を以て韓王を諌めたが,聞き入れなかったので韓非子の一部を書いた。秦
王シンオウはこれを観て,急に韓を攻めたと云う。刑名の学とは法令を正しくし,賞罰を
厳にして国家を保った法で,国家を強化するための諸政策を述べたものである。「孟
子」「荘」と並んで古文の三大文章と云われる。
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