11e 乃木将軍詩歌集「短歌」
 
 いたづきは我おこたりのとがなれば
 大みめぐみになにとこたへん
 
 たまはりの花のかずかず夏のあした
 秋のゆふべも色さやかにて
 
 思ひきや酒ものまずに今日の月
 かゝるところにかくてみむとは
 
 いたづらに立ち茂りなば楠クスの木も
 いかでかほりを世にとゞむべき
 
 根も幹も枝ものこらず朽果てし
 楠の薫りの高くもあるかな
 
 いたづきの身にはことさらひゞきけり
 夜すがらたえぬ雨だりの音
 
 右六首は、明治四十三年八月中旬から、中耳炎を病み赤十字病院に入院中の作。
 「たまはりの・・・・・・」は、入院中畏き辺より御見舞をたまわった時の謹詠。
 「思ひきや・・・・・・」は、九月十八日陰暦仲秋明月の夜に詠んだもの。
 
 あなたふと弦巻ツルマキ山の朝げしき
 東に初日西に富士が根
 
 千早振チハヤブル神代ながらの朝日かげ
 としのはじめにあふぐたうとさ
 
 すめみまの宮居のいづこ海ウナづらの
 里にきほひて朝日かゞやく
 
 右三首とも、明治四十四年一月元旦の作。
 
 有明の月影さゆる雪の上に
 ひとりこほらぬ梅が香ぞする
 
 明治四十四年一月二十一日の作。
 この歌の題詞には「二十一日雪の暁に」と認めてあり、新年の御題「寒月照梅花」を
詠まれたもの。
 
 よき友とかたりつくしてかへるよの
 そらにくまなき月をみしかな
 
 さやかなる月影ふみてゆく道は
 遠きもうしと思はざりけり
 
 思ふどち語りつくしてかへる夜の
 そらには月もまどかなりけり
 
 かたらじと思ふこゝろもさやかなる
 月にはえこそかくさゞりけれ
 
 右四首は明治四十四年二月十二日夜の作。「さやかなる・・・・・・」以下三首は井上通泰
氏と語り合い、学習院に帰られた後、同氏に送られたものと言う。
 
 宮つこの朝ぎよめする袖ソデの上ヘに
 ほろほろとちる山櫻かな
 
 明治四十四年五月四日の夜、学習院第五寮において茶話会を開いた時、黒板に書いて
示されたもの。「社頭落花」と題してある。
 
 御名代の宮のまします船の舳ヘに
 なみなたゝせそ和田つみの神
 
 加茂丸の舳ヘさきになびく旭ヒの御旗
 和田つみの神もまもりますらむ
 
 朝な朝なをろがみまつる東ヒンガシの
 空にたふとき天つ日のかげ
 
 東ヒンガシに豊栄トヨサカのぼる天つ日の
 かげみち渡る大うみのはら
 
 大ぞらの壁たつきはみたひらけく
 青海原にさゞなみもなし
 
 さやかなる月のひかりに和田の原
 黄金しろがねなみの花さく
 
 大ぞらのくまなき月を仰ぎつゝ
 青海原を渡るすゞしさ
 
 波の上に月影きよきよもすがら
 友とかたりつ酒をくみつゝ
 
 右八首は、明治四十四年六月、英國皇帝戴冠式に両陛下の御名代として東伏見宮依仁
親王同妃両殿下御渡英の際、東郷大将と共に随行した時の作。
 
 朝まだき武庫ムコの河原はきりこめて
 駒のひづめの音のみぞする
 
 千萬チヨロズの火筒ホヅツのひびきとゞろきて
 やみ夜のそらもしらみそめけり
 
 右二首は明治四十四年十一月、肥筑(熊本・福岡県)地方大演習に先だって、摂津(
兵庫県)にて第四、第十六師団対抗演習の行われた時の作で、それぞれ「将校斥候」「
夜戦」と題されている。
 
 そのかみの血しほの色もしのばれて
 紅葉モミジながるゝ大刀洗タチアライ川
 
 千五百秋チイホアキの瑞穂ミズホの國の民草の
 しげりに茂る御代ぞめでたき
 
 右二首は、明治四十四年十一月、肥筑地方大演習陪観の折の作。それぞれ「菊池氏古
戦場」「奉迎拜観人如墸(土+者)」と題されている。
 
 わするなよ秋の紅葉に春の花に
 血潮ふみつゝ進みし時を
 
 明治四十四年十二月、爾霊山占領第七周年記念の席上において、馬場中尉に書きあた
えられた作。
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