11d 乃木将軍詩歌集「短歌」
 
 櫻よし紅葉もそめて水清く
 たがみよし野となづけそめけん
 
 吉野山秋のけしきをたづぬれば
 白雲ならでそむるもみぢば
 
 霜にさゆるひづめの音に心せよ
 ひんがしの空に弓張の月
 
 皇軍ミイクサの神代のおきてとはまほし
 久米ものゝべの遠つみおやに
 
 天津日の光をうけし皇軍は
 神代も今も幸ぞありける
 
 右五首は明治四十一年十一月の作。
 「奈良大演習乃節 櫻よしハ高橋侍従武官ヨリ、外四首ハ岡澤武官ヨリ 天覧ニ供シ
畏クモ御批ヲ賜リタリ」と自記されている。勅批(※)は次の如くである。
 
 吉野山にて
     ※もそめて  ※く
 櫻よし紅葉もまたよし水清し
 たがみよし野となづけそめけん
 
 吉野山
        ※をたつぬれは
 吉野山秋のけしきはかしこくも
      ※そむるもみちは
 白くもならてにしきなりけり
 
 「十二夜行軍」にと題したる三首の中、「霜にさゆる」「皇軍の」はそのままで
 
      ※うけし
 天つ日の光をせをふ皇軍は
      ※そ
 神代も今も幸はありける
 
 と勅批を賜った。
 
 時雨シグレして柳櫻はちりはてぬ
 みやこ大路も秋ふけにけむ
 
 明治四十一年十一月、奈良大和地方において、明治天皇御統監のもとに行われた大演
習の時の作。
 
 冬ながら后キサイの宮のましませば
 春心地なる靜浦の里
 
 明治四十二年一月、沼津に御避寒中の皇后陛下の御機嫌奉伺のため御用邸に参向せら
れた時の作である。
 
 駒とめてしばしは我を忘れけり
 あさ日に匂ふ花の下かげ
 
 花霞上野の山にたちこめて
 有明の月も朧なりけり
 
 右二首は明治四十二年四月九日の早朝の作。
 将軍は白馬にまたがって、突如石黒忠悳男爵を訪ね、筆紙を乞い「今朝五時家を出で
て東臺を過ぎ、暁花を見て二首を得たり。」と言って書き示された。
 東臺は上野東叡山のこと。
 
 榊葉にかをかぐはしみとめくれば
 八十氏人ぞまどゐせりける
 
 神垣の三室の山の賢木葉サカキバは
 かみの御前にしげりあひにけり
 
 右二首とも「賢木」と題してある。明治四十二年五月、松浦伯爵家所蔵の原本を拝借
して、将軍が謹写された、山鹿素行著「中朝事實」の跋文附録に記されたもの。
 
 横に行ユクものとや人を思ふらん
 おのれを知らぬ蟹カニの心に
 
 明治四十二年八月二十二日の作。
 伊勢二見の神陵園清水石仙氏の願いに応じて、同氏手製茶碗にこの和歌を書かれた。
 
 ながかれといのらぬものを武士モノノフの
 老いくるゝまでのびし玉の緒
 
 明治四十二年十月二十六日の夜、「伊藤公(博文)ハルピン駅頭に暗殺せらる」の号
外を手にしての作。
 
 遠くとも花ある道をたどりなむ
 人にまたるゝ身にしあらねば
 
 明治四十二年頃の作。
 
 きのふけふふるとしもなき春雨に
 柳さくらはいろづきにけり
 
 明治四十三年三月、清水澄博士におくられたものを後に改作して右の歌になった。
 
 久和クワし戈ホコ千足チタルの國のますら雄の
 あらみ魂こそ劍なりけれ
 
 明治四十三年五月、桂彌一氏に銘刀一振を贈られたが、その刀を包める紫袋の裏面に
この歌を記す。
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