11 乃木将軍詩歌集「短歌」
乃木将軍詩歌集「短歌」
参考:中央乃木会発行「乃木将軍詩歌集」
「短歌」
いかり猪イのあとかへり見ぬいさましさ
かくあらまほし武士モノノフのみち
明治八年一月八日作。
此の雪をものうく君のみますかな
越路の空はよし晴るゝとも
降る雪に思ひ出でけり浪花江に
よしの花飛ぶ秋の夕ぐれ
右二首は明治八年一月二十九日の作。
月に雲花に嵐の無かりせば
浮世は如何で物憂モノウかるらむ
明治九年三月十日作。
心せく旅にしあれど幾度か
思はず花に駒コマ留トメにけり
明治九年三月十一日、日記に「朝七時南關(熊本県)ヲ發ス。途上有國詩」とあり、
熊本県鎮台司令長官野津鎮雄少将の命により、小倉から熊本へ向かう途上の作。
ちりを吹く嵐に花をなやまする
都の春は物憂モノウかりける
明治九年三月十五日、前記帰任の途上「筑紫ヨリ太宰府ニ入ル」時の作。
飢えるとも穢キタナしものは喰クラはじと
誓ふ心の有ればこそ人
明治九年三月二十八日の作。
時きぬとま籬ガキにすだく虫の音も
物あはれにぞ聞かれぬるかな
みな人のたのしくや見む望月モチヅキも
心さみしくながめられけり
こぞよりもことしの秋は物うけれ
又くる年はいやまさるらむ
右三首は、明治九年十月六日k作。
この頃、令弟玉木正誼より、しばしば前原一誠の挙に加わるよう書簡があったことが、
日記に見えている。令弟の身を案じ、今宵の名月に感傷の思いを託したものか。
去年コゾの春おのがちしほのくれなゐを
ことしはす田に花と見るかな
明治十一年の春、歩兵第一聯隊長時代の作。
張ハリつめし案山子カカシの弓はそのまゝに
あられ玉ちる那須の小山田オヤマダ
明治二十四年暮、那須野に閑居中、吉田庫三氏に送られた作。
たらちねのゆめやすかれといのるなり
心してふけ那須の山風
日清戦争出陣の折の作。
かずならぬ身にもこゝろのいそがれて
ゆめやすからぬ廣島の宿
「肥馬大刀尚未酬」の詩と共に日清戦争の際、広島にての作で、この詩歌自筆の書に
次の識語がある。
「明治二十七年十月九日正午於廣島城内大本營御陪食之後徳大寺侍従長ヨリ天覧ニ供
セラル蕪詞ニ首書シテ家兒等ニ示ス」
新玉の年たちかへる大ぞらに
朝日まばゆくさし登る
光りぞ皇キミの御稜威ミイヅなり
もろこし人もこま人も
大和こゝろのもゑ出イデて
我日の本の民草と
おなじめぐみの露に逢らむ
「明治二十八年の一月、盛京の省なる普蘭店の陣にありて元旦の試筆にとてものす」
と題詞をつけて吉田庫三氏に送られたものである。
高砂タカサゴの島戍モる身にも秋は來ぬ
はゝその森に霜やおくらむ
明治二十八年の秋、台湾から吉田庫三氏宛の書簡中にこの和歌の原作がみられる。
「高砂」は台湾の別称。「はゝそ」は樫の古名で母とかけている。
武士モノノフは玉も黄金コガネもなにかせむ
いのちにかへて名こそをしけれ
明治三十一年将軍が台湾総督を辞して閑居中、ある商人が将軍に利殖事業を説いて賛
成を求めた時、将軍は右の歌一首を認めて、これに応じなかったという。
ときはなる老木オイキの松は眞鶴マナヅルの
千チとせをちぎる友にやあるらむ
新年(明治三十三年)勅題「松上鶴」を詠じたもの。
野も山も埋ウズみはてたる雪の上に
影も凍るや弓張ユミハリの月
明治三十五年一月十日、蓋平役記念日の作。「車中ニテ」と題してある。
この雪の朝早く、将軍は那須野から野木神社に詣で、野木尋常小学校の請いにより「
勇氣ノ必要談」を生徒に話し、その帰途車中で詠まれた。
はたち餘アマり五年イツトセけふの物語り
過スギにし友のしたはしきかな
明治三十四年第十一師団長時代、多度津の旅館において、熊本篭城記念会を催した時、
同会幹事江口和俊氏にあたえられた作。「はたち餘り五年」は二十五年。
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