や1 八坂神社
 
〈やさかじんじゃ〉
 八坂神社 京都市東山区祇園町鎮座、旧幣大社
 祭神は素戔嗚命・稲田比売命・八柱御子神である。
 古来、祇園天神又は祇園社と呼ばれ、平安時代以来引き続いていた朝野の信仰篤く、
現に京都市の大社として、付近の地一円の産土神と崇められている。また、その祭神は
全国各地に広く勧請せられ、その祭は祇園祭・天王祭などと呼ばれて全国に分布してい
る。
 この神社の創祀は、もとより平安時代のことであるが、古来の伝えは必ずしも一定し
ていない。『二十二社註式』に、牛頭天王ゴズテンノウが初め播磨明石浦に垂迹し、この後
広峯に移り、更に北白川の東光寺に移り、やがて元慶年中(877~885)に感神院即ち祇
園社に移って祀られたと見える。しかし、八坂神社所蔵の『社家条々記録』によれば、
貞観十八年、南都円如上人が初めて建立したと見える。
 『祇園社略記』も同じく貞観十八年説をとるが、明石浦から各地を移り来ったとする
前述の説とを折衷したものである。また陽成天皇の元慶年中に藤原基経は、その邸宅を
移して「牛頭祠」を建てたと伝えている。二十二社註式に引く承平五年(935)六月十三
日の官符によると、山城国愛宕郡八坂郷地一町を占めた八坂観慶寺は祇園寺とも云い、
桧皮葺三間の堂や礼堂の外に、五間の桧皮葺の神殿があり、これに天神・婆利女・八王子
を祀ったと見える。本朝世紀の天慶五年(942)六月二十一日の条に「祇園寺感神院」と
あり、神仏習合的な神社として起こったことが知られる。
 
 承平五年定額寺に列し、次いで朝廷の崇敬を得て、天慶五年六月東遊・走馬十列等を奉
って、先に祈念した乱の奉賽とした。円融天皇の天禄元年(970)に初めて祇園御霊会が
行われ、年ごとに盛んになり、朝野を挙げての賑わしい大祭となった。また、天延二年
(974)には延暦寺別院となり、従来の南都興福寺の支配を脱して、山門の勢力圏に入っ
たため、両方の争いに巻き込まれ、度々災害を受けた。
 一條天皇の長徳元年(995)に二十一社に列し、後三条天皇の延久四年(1072)三月稲
荷と共に行幸の例を開かれ、崇徳天皇の天治元年(1124)六月、初めて祇園臨時祭を行
い、永式とされた。
 鎌倉時代を通じて、公家の篤い尊信を受けたが、吉野時代には執行顕詮の努力によっ
てその威光を拡大した。江戸時代には、昔日の盛観に及ばなかったが、朱印領百四十石
を領し、市内の要部を占める氏子との親密を加えた。
 明治元年五月祇園社を八坂神社と改称した。同四年五月に官幣中社に列し、大正四年
十一月官幣大社に昇格した。本社には宝物記録多く伝来し、『八坂神社社文書』『八坂
神社記録』各二冊を公刊す。現在の社殿は承応二年から三年(1653~4)再建のもので、
白朮祭オケラマツリ(一月一日)・若菜祭(一月七日)・祇園祭(七月十七~二十四日)が知ら
れる。
 
〈牛頭天王〉
 牛頭天王とは、印度の祇園精舎の守護神であると云われる。祇園天王又は単に天王と
も云う。祇園系の神社及びその祭神の俗称。
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