02 その他の神信仰
〈山王信仰〉
[詳細探訪]
〈多賀信仰タガシンコウ〉
多賀信仰とは、滋賀県犬上郡多賀町に鎮座の多賀大社(元官幣大社)に対する信仰で
ある。中でも延命エンミョウ長寿の神として琵琶湖南岸、比良の山下の白鬚シラヒゲ明神と並び
称せられる同大社は、神代に伊弉諾尊が鎮座したのに起こり、伊弉冉尊と二座を祀る。
当社の延命信仰の起こりとされるのが、東大寺大仏殿再建で有名な俊乗房重源チョウゲン
の延命伝承である。治承四年(1180)、平重衡シゲヒラが南都を焼き討ちし、ために東大
寺、興福寺は炎上した。翌年後白河法皇は東大寺を再建すべき詔を下し、重衡をその事
業の大勧進ダイカンジンに補した。建仁三年(1203)後鳥羽上皇の臨幸を得、東大寺の総供
養が行われ、ここに重源多年の辛苦が実ったのである。
『多賀大社儀軌』によると、この間のこととして、重源は年八十に及ぶ身で東大寺再
建に当たることになったので、まず伊勢大神宮に十七か日の参籠をし、法楽を捧げて祈
請けしたところ、「汝寿命を祈るならば、近江の多賀神に祈るべし」との神教を受けて
夢が醒めた。そこで重源は急いで当社に参詣し、祈願を籠めた時、一枚の木葉が面前に
飛んで来た。それに「莚」と云う形が現れていたので、「莚」は廿と延で、なお二十年
の寿命を我に授け給う神意であろうと思い、厚く拝謝し、それより諸国を回って十万の
檀那に勧進し、建久六年(1195)目出度く大仏供養の式を行うことが出来た。そこで重
源は再び参詣して奉謝し、のち境内の寿命石に坐して遷下センゲした。時に寿百有余歳と
云う。
この物語が多賀神を延寿の神として仰がしめる本となり、中世以来坊人ボウニンの活動に
より、延命信仰は次第に世に広まって行った。坊人は神札を遠近の信者に配り、持参の
神影を拝ませて祈祷すると共に、これに添えて供物クモツ、延命酒などをも配り、活発な檀
那回りを繰り広げ、寿命神の信仰はあまねく行き渡った。豊臣秀吉は天正十六年(1588
)母大政所に病臥すると、諸大社寺にその回復を祈願したが、当社にも米百石、銭三十
貫文を寄進して祈願させ、全快すれば、更に一万石を寄進すべきことを約した。
井原西鶴の『本朝二十不幸』に「江州多賀大明神に参り・・・・・・此神は寿命神なれば・・・
・・・」とあるなど、当社が寿命神として広く世人に信仰されたことが分かる。今日も多賀
講は盛んであり、また当社の分祀は各地に亘って、二百数十社に上っている。
[次へ進む] [バック]