06a 長嶺老人クラブ区域内の神様
名 称 所在地 故事来歴
「長嶺八幡神社祭礼先払舞」
この舞は、八幡平長嶺の鎮守神八幡神社の祭礼先払舞として奉納されている。祭礼は
以前は旧暦六月十五日であった。
明治二十年頃、岩手県二戸郡兄川の稲荷社の祭礼に伝わる舞を導入したもので、俗に
兄川舞と云われている。その起源は、南部藩の頃、浄法寺(同郡)の桂清水観音堂の祭
礼先払舞が近郷に伝えられたものと云う。
また先払舞の謂れは、わが国が始まって以来最初の踊りで、昔、天照皇大神がわが国
を治めようとして、イヌイノミコトに言い付けて、高天原から出雲の国を降って見たと
ころ、出雲の国の原っぱに降りたが方向が分からず、それに猛獣が多かったため一歩も
進むことが出来なかった。そこに猿田毘古神と云う神様(鼻天狗)が道案内をしようと、
部下を集めて剣と剣をぶっつけながら、ヨイトコサッサ ヨイトコサッサ ヨイトコ
ヨイトコ ヨイトコサッサ ソレ ソイサッサ と掛声を掛けながら踊りを踊り、猛獣
を追い払って道を切り開いたと云われている。そのため、先を払って踊りを踊りながら
道を開いたことから、先払舞と云われている。
この舞は部落内の男子の小中学生により舞われる。舞子の数は三四十人、袖に鈴を付
けた肌着、襦袢ジュバン、手甲、脚絆、帯、鉢巻できらびやかに着飾り、腰に木刀(戦前
は脇差等)、衿に日の丸の扇を差し手には五色の房を付けた飾り棒を持ち、若者達の笛、
太鼓、手平金ジャガネの囃子に合わせて賑やかに舞われる。
舞は十二節よりなり、その順序は、
@五ツ打ち、A二ツ打ち、B拝むもの、C拝まないもの、Dしゃれしゃれ、Eじゃんじ
ゃんじゃッきん、Fしささい、Gとかとか、Hまえこ取り、Iたち車、Jきねとり舞、
K下ぶつけ、と舞い進められる。
@Aの舞は棒舞で、BからFHIとKは刀舞であり、Gは扇舞、Jは杵キネ舞である。
この先払舞は、同じ頃湯瀬(七月土用丑の日)、谷内(八月十六日)、赤平に、また
戦後大里にも導入され、それぞれの鎮守の祭礼に舞い納められている。
[文化財「 湯瀬・谷内・長嶺・赤平・大里先祓舞」]
稲荷神社 長嶺 ○祭神 稲倉命、社地東西四間、南北四間、社二尺四
面、祭日四月二十日、明治三年の「当時境内
並明細書上取調帳」によれば、勧請年代等は
不明であるが、寛保二年(一七四二)三月長
嶺村有志(二名)再建し、その後村方で諸普
請修復してきた。神位は寛政五年(一七九三
)四月上京(京都)伏見家より申請けた。社
名は「正一位稲荷大明神」とある。
○現在は、毘沙門神社の春祭秋祭と同日に部落一同で
参拝している。
○現在の社は三尺四面である。
熊野神社 和田 ○祭神 大屋都比売命、社地東西五間、南北四間、宮
弐間四面、祭日六月十四日、明治三年の「取
調帳」によれば、勧請年代不明であるが、元
禄十五年(一七〇二)村方で再建し、その後
同村で度々普請してきたとある。社名は「熊
野宮大明神」とある。
○現在の社殿は二間四面である。
新山神社 長嶺 ○祭神 大山祇神、明治三年の「取調帳」によると、
社地東西三間、南北五間、社は一尺五寸四面、
祭日五月十五日、勧請年代は不明であるが、
寛文九年(一六六九)再建し、その後村中で
諸普請修復してきたとある。
○大日堂舞楽「鳥遍舞」の六人博士が新山様である。
○現在の社は石造で間口一尺三寸、奥行一尺二寸、高
さ二尺五寸である。
お不動さま 長嶺 ○祭神 お不動さま、御神体は石造りにて高さ二尺五
寸位。
○社は八森岳の中腹より下に一丈余りの突出した大岩
石の根元に鎮座しているが、昭和三十年頃までは二
間四面の社殿があったが、その後雪の被害にて倒れ
て今は再建されていない。
○雪が多いため現地調査が出来なかったがため、関係
者より話を聞いた。
○祭典は毎年旧四月三日
赤沼さま 長嶺 ○祭神 龍神さまではないかとのこと。
古老の人達より聞いても確かなことは知らな
いが、近くに約巾一間、長さ二間位の赤い色
をした沼があって、よく豊凶作の占い又は雨
ごいのサンゴ打にいったとのことであるので、
龍神さまではないかとのことである。
○社殿は一間半四面、祭神は毎年旧四月九日
○雪が多いため現地調査が出来なかったため、関係者
より話を聞いた。場所は八森岳の中腹よりやや下に
ある。
三峰神社 長嶺 ○祭神 狼の神霊
○社は雪が多いため調査はできなかったが、先輩の話
では石造りで一尺三寸位四面で、高さ二尺五寸位で
あるとのこと。
○幕末の頃、放牧場にての狼の被害に悩まされていた
ので放牧場安全のため、関東奥秩父に鎮座されてい
る三峰神社より狼の神霊を戴いてきて、八森岳の裾
野の放牧場の小高い峰に祀っている。
駒形大明神 長嶺 ○祭神 宇気他游宮神、明治三年の「取調帳」によれ
ば、社地東西五間、南北三間、社は弐間四面、祭日
は五月五日。勧請年代は不明であるが、寛延三年(
一七五〇)村中で再建し、その後度々普請修復して
きたとある。
○現在祭日は六月五日、戦前農耕に牛馬が使われた頃
は蒼前さまと称し、牛馬等の守り神として広く崇敬
された。
○社殿 間口二間半、奥行二間
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