06 長嶺老人クラブ区域内の神様
名 称 所在地 故事来歴
毘沙門神社 長嶺 ○祭神 毘沙門天(木造白木立像)、明治三年の「当
時境内並明細書上取調帳」には、手力雄命と
なっている。
○同書によると、境内東西八間、南北六間、宮は三間
四面、社名も「長嶺大明神」、祭日は四月三日とな
っている。又勧請年代不明であるが、寛延二年(一
七九四)四月、村中氏子で再建し、以来修復して来
たとある。
○この神社は、昭和二十二年火災により焼失し、二十
四年に部落民により一段高い所に再建された。尚、
樹齢四百年程の「大公孫樹」が神木として元境内に
聳え立っている。
○現在の社殿は昭和二十四年に再建され、間口三間、
奥行五間、屋根は萱ブキで、その上に瓦形のトタン
ブキである(阿部甚之助氏所有の明治三年の神社取
調帳による)。
[むらのいぶき]
祭神 産土神、手力男命
大日堂と関連があると云う。
境内は大公孫樹が生えている。
御神体(御尊像様)はあったが、部落の子供達が御尊
像様の首に縄を括り付け、引っ張って遊んでいたが、
今はない。
祭日には、部落民が神社に集まり、別当に祈祷して貰
い、昼頃から持参した料理を出し合い、御神酒をご馳
走になって来る。
昔は部落内にある数ケ所の神社(祠)を全部回って拝
んで歩き、またこの神社に戻り更に一盃戴いたとのこ
とである。
[文化財 「KI10064 長嶺毘沙門神社の大公孫樹」]
八幡神社 長嶺 ○祭神 大鞆和気命、明治三年の「取調帳」によると
境内地東西五間、南北十間、社は弐尺四方、
勧請年代は不明であるが、元文五年(一七四
〇)長嶺村有志(二人)再建し、その後村方
で普請修復してきた。祭日は、八月十五、社
名は「八幡大明神」とある。
○この社は明治維新後、長嶺村鎮守となり三間四面に
再建され、明治二十年に祭のにぎわいを求めて、兄
川(岩手県)より「先払舞」が導入され、祭日も旧
七月十五日に改められた。現在は、太陽暦六月の第
三日曜日に改められ、部落の豊年祭として部落会で
斎行している。
○社殿は間口三間奥行四間、外に奥社は一間四面であ
る。
○石段は修復前は二百二十三段であったが、現在は二
百五段に修復された。
[むらのいぶき]
祭神 大鞆和気命
文禄二年、長嶺氏子中にて建立。
境内は見晴らし良く、赤松の巨木が境内を囲み、神木
として二米余の杉木があった。
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