04b 修験道と道教
 
〈教派修験下の里修験と道教〉
 戦国時代になりますと本山を園城寺末の聖護院に置き,全国の熊野修験を統括した天
台系の本山派と,大峰山中の小笹に拠点を置いた近畿地方の諸大寺の修験の結衆である
真言系の当山派の教派修験が成立しました。本山派は寛治四年(1090)白河上皇の熊野
御幸の先達を勤めた天台宗寺門派総本山園城寺(三井寺)の増誉が,熊野三山検校に補
されて熊野三山を統轄したのに始まります。その後十四世紀末頃から熊野三山検校職は,
園城寺末の聖護院門跡の重代職となりました。十五世紀に入りますと聖護院門跡は京都
東山の若王子乗々院を熊野三山奉行とし,住心院,積善院などの院家の協力の下に全国
の熊野先達を統轄しました。その支配は主要な二十七先達の下に年行事を置き,彼等に
霞と呼ばれる一定地域の山伏の支配や参詣の先達・配札の権限を認めると云う形態で行
われました。なお本山派においては園城寺の開祖円珍(智証大師,814〜891)を派祖に
挙げています。
 当山派は十五世紀末頃,近畿地方の諸大寺に依拠した山伏が大峰山中の小笹に拠点を
置いて,当山正大先達衆と呼ぶ組織を作ったのに始まります。彼等は東大寺東南院に住
して,金峰山において修行し,後に醍醐寺を開いた聖宝(理源大師,831〜909)を派祖
として結束し,最盛期は三十六カ寺の先達が集まったことから,当山三十六正大先達衆
と称しました。尤も江戸初期には十二カ寺に減少しましたので,当山十二正大先達衆と
呼ばれました。彼等は何れも廻国して直接自己の弟子を作る袈裟筋支配と呼ばれる組織
形式を採っていました。江戸時代に入りますと当山正大先達衆は醍醐三宝院を本寺に戴
いて,当山派と呼ばれる教派を形成しました。なお江戸幕府は当山派を育成して本山派
と競合させる形で修験道界を支配しました。尤も吉野山,羽黒山,戸隠山などは本・当
の何れにも属さず,輪王寺門跡末になりました。更に江戸幕府は本・当両派などに属し
た山伏を地域社会に定住させて,加持祈祷,配札,社寺参詣の先達に当たらせました。
こうした地域に定住して活動した修験者は,里修験と通称されています。
 修験教派を包摂した園城寺や醍醐三宝院においては,その教派の円珍や聖宝の修験霊
山との関わりを強調した伝記を作成しました。即ち園城寺においては,円珍が役小角以
来峰入が途絶えていた熊野三山に入って無相に住して,神呪を誦して進みますと雲霧に
包まれました。そのとき八尺の大鳥が現れて本宮に導きました。そこで円珍は此処で七
日間に亘って法華経を講讃したとしています。これは古代末の仙境訪問譚に基づく創作
です。一方近世初頭に当山正大先達衆を統轄した三宝院門跡房演(1667〜1736)が編ん
だ『修験秘記略解』においては,聖宝が大峰山中において大蛇を胎児して役小角以来途
絶えていた峰入を再興した話や深草の普明寺において尸解した話を挙げています。尤も
これらにおいては,円珍や聖宝が既に傑出した僧侶でその史伝もあったせいか,役小角
や諸霊山の開山の場合のような過度の仙人化はなされていません。
 江戸時代になって里修験化が進み,地域社会に定住した修験者は,人々の要請に応じ
て多様な神格を崇めましたが,これらの中には,道教の神格も認められました。即ち江
戸時代の里修験は殆どが不動明王を本尊としましたが,脇士には役行者,大日,観音,
阿弥陀,地蔵,権現(金剛蔵王権現・熊野権現など),更に小堂には弁財天,毘沙門天,
荒神,稲荷,庚申,童子を祀っています。このうち庚申は道教の神格,荒神も道教の竈
神の信仰に連なるものです。因みに当山派の『修験常用集』には歩擲,大元師,焔魔天,
水天,風天,地天,妙見,北斗七星,九執十二宮神,二十八宿,司命,五竜王など道教
の神格とも関わるものが挙げられています。また修験者が神祭に用いる『神祇講式』に
は,天神七代・地神五代・天照・豊受・八幡・加茂・松尾・平野・熊野・白山・鎮守な
どの他,荒神・麁乱神・北斗七星・諸宿曜・行厄神・堅牢地神・焔魔法王・五道冥官・
泰山府君・司命司録・倶生神・竜神・,当山派の作法である『修験最勝慧印三昧耶普通
次第』の神分にも,天照・八幡などの六十余州の神・鎮守・蔵王・熊野権現の他にも本
命元辰・諸宿曜・焔魔法皇・太山府君・司命司録・冥官冥衆など,道教にも関わりのあ
る神格が招かれています。
 里修験は地域の人々の宗教生活に密接に溶け込んでいたこともありまして,彼等の宗
教上の問に答えたり,その要請に応えて祭,験術,呪法などをしました。これらの中に
は道教との関連が認められるものも少なくありません。まず神格に関する説明を観ます
と,総じて神は聡明かつ正真で真を賞で,偽を罰します(愚答(以下『修験檀問愚答集
』を愚答と略す),抱朴子)。尤も神は人の心掛け次第で善神にもなれば悪神にもなり
ます(愚答,太上感応篇)。神の中においては月の晦日の夜天に昇って人の罪状を告げ
る竃神である三宝荒神(故事(以下『修験故事便覧』を故事と略す),抱朴子・感応篇
),天の司命に人の悪事を告げる庚申(故事・愚答,抱朴子・感応篇)が特に道教に関わ
るものです。その他天狗(愚答,山海経),大黒天の使いの鼠(愚答,抱朴子)も注目
されています。この他では聖人は古の真人で,寝ているときも夢を見ず,目覚めても憂
いがない人です(愚答,荘子)としたり,血判(愚答,抱朴子),正月に貘の夢を見る
こと(愚答,山海経),七難九厄(故事,黄帝内経霊枢),鬼門(愚答,山海経),左
義長(愚答,永平十五年,後漢の明帝が僧と道士に火の験競べをさせた際に道教の教典
が焼けた故事による)など道教と関連付けた説明がなされています。なお江戸時代には
道教の善書が流布しましたが,修験道においても「勧善懲悪に心をかける」(『修験指
要弁』修蔬V)よう勧められ,当山派修験の明存は,寛政四年(1792)に『太上感応篇
和解』を著しています。また里修験の間においても善書が流布しています。
 里修験は疫神祭,荒神祭,地鎮土公祭(『彦山修験最秘印信口決集』修蔬U),庚申
待作法,荒神供作法,盗賊除散法(『修験要法集』)など道教にも観られる祭や作法を
行いました。また彼等の祈祷所の壇上には壇鏡が置かれましたが,これについては『抱
朴子』を引用して魔除けの働きがあるためとしています(故事)。なお『抱朴子』には,
道士の術には穀断,刃物を跳ね返す法,鬼や変化を折伏する法,毒を防ぐ法,治病法,
山において猛獣に襲われぬ法,渡河の際に蛟竜に害されぬ方法,疫病の流行している土
地を歩いても感染せぬ法,姿を眩ます法(内篇六,微旨),兵難を避ける法,歯を丈夫
にする法,耳や目をはっきりさせる法,登山しても疲れない法(内篇十五,雑応)など
があるとしていますが,修験道の火渡り・隠形・飛行などの験術,九字・金縛り・筒封
じなどの呪法もこれに類するものです。又道教の入山修行の際の禹歩,入山符(内篇十
七,登渉)や薬(内篇十一,仙薬)に類するものは修験道においても認められます。特
に符呪は里修験が好んで用いましたが,これについては『抱朴子』を引いて,符は老君
に始まるもので,神明から授かり,人間が用いるものとしています(修験初学弁談,愚
答,故事)。ここでは特に道教と関係が深い九字,筒封じ,反閇ハンバイ,急(口偏+急)
急如律令の呪文,薬について簡単に触れます。
 九字は修験道においては,内縛の印を結んで臨(内縛)・兵(外縛)・闘(剣印)・者(
索印)・皆(内獅子印)・陳(外獅子印)・烈(日輪印)・在(宝瓶印)・前(隠行印)と唱
え,掌中に息を吹き込んだ上で,刀印で空中を四縦五横に切るものです。この最後の行
を唱えて十字の法とすることもあります。これに対して中国の書『抱朴子(十七登渉)
』所掲の九字は,空中に手で横に四本縦に五本の線を引いて,三十六回歯を叩き,臨兵
闘者皆陳烈前行の九字を念ずるものです。これについて,修験道においては『抱朴子』
を引用した上で,修験で陳列在前と唱えるのは太公望の説(故事)に基づき,九字に印
を付したのは弘法大師である(愚答)としています。因みに『修験深秘行法符呪集』(
以下符呪と略す)には二十近くの九字の修法が収録されていますが,延命の目的で成さ
れる「九字本地」においては,北方の天に向かって九字を九遍唱えて,歯を九遍噛み合
わせています(符呪一九七)。九字は刀印で悪魔などを切り刻む修法ですが,道教にお
いては張天師が悪鬼を殺す剣を持っていたとか,彼の宮殿には悪霊を閉じ込めた壷が並
べられていた,とされています。修験道においては,豊前国求菩提山開山の猛覚魔卜仙
が,威奴岳に居た八鬼の霊を甕カメの中に封じ込めて山を開いたとの伝承が知られていま
す。また呪咀する相手の人形を作り,これを九字で切り金縛りの法をして上で,竹筒に
入れて百八回縄で縛り,四辻に逆さまに埋めると云う筒封じの法が行われています(故
事)。『抱朴子』(十七,登渉)所掲の禹歩ウホは,陰陽道に採り入れられ,貴人の出御
の際に地霊を鎮め祓い清める反閇となっていきました。修験道の「遷宮大事」おいても
右拳を左に向けて右足を前に出して悪神は去ると云い,次いで左拳を右に向けて左足を
前に出して福神は来る,と唱えると云う禹歩に似た作法が成されています。またこれと
似た大地を踏み付けるようにして歩いて地霊を鎮める所作は,羽黒修験秋峰の固打木の
作法・採灯護摩の火箸作法,東北地方の山伏神楽や法印神楽の舞にも認められます。
 修験道においては数多くの符呪が用いられていますが,それには道教のものと同様に
鬼・山・日・月・急(口偏+急)急如律令などの記号が記されています。このうち急(
口偏+急)急如律令の呪文は,日月の変,星の変,火変,病,風,旱魃,賊兵の七難を
起こす鬼神を降伏する力を持つと説明されています。ただ修験の符には『抱朴子』と異
なって殆どのものに不動,大日などの種子が記されています。なお江戸時代の修験霊山
においては芝草などを基にした独自の薬が作られていました。その主なものには,陀羅
尼助(大峰山 − 製作地,以下同じ),百草(木曽御岳),万金丹(伊勢の朝熊山),
熊膽・反魂丹(立山),蓬莱丹(富士),不老丹(彦山,求菩提山)などがあります。
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