04a 修験道と道教
ところで前掲の『本朝神仙伝』には三十七人の仙人が挙げられていますが,この中に
は役行者,泰澄,窺詮,教侍,陽勝,出羽国の石窟仙,浄蔵,比良山の仙人,日蔵など
修験者と思料される者が散見されます。なおこのうち窺詮は長生を求めて辟穀や服餌を
し,陽勝も辟穀をしています。更に『本朝法華験記』においては十人の仙人中五人,『
今昔物語』においても十人中五人は修験者です。これらの修験者は山中の庵や洞窟にお
いて頭髪や髭を剃らずに藤衣を纏い,穀断をして松果などを食して,法華経を読誦し,
呪を唱えるなどをして修行します。そしてその結果童子や鬼を使役し,火を操作したり,
飛行自在の力を得るのです。彼等は長生しますが,死んだ後は尸解し,死骸を残しませ
ん。
なおこうした法華持経の山伏が仙境を訪れる話も数多く認められます。その一般的な
構造は,大峰山中などにおいて道に迷った山伏が,法華経を唱えると急に視界が開け,
仙境に達します。仙境には白砂が敷かれ,咲き誇った花の中に庵があり,童子・女仙・
動物などにかしずかれた老人又は若者の僧が居て,法華経を誦んでいます。そして訪れ
た山伏に丸薬などを与えて元気付け,火を操作する呪法などを見せた上で,他言・再来
を禁じて童子や飛鉢によって元の処に送り届けると云うものです。この仙境訪問譚は道
教のものと類似していますが,法華持経の山伏が仙境において真の法華行者の仙人と結
縁すると云うように法華経信仰で脚色されている点が異なっています。
〈修験道の成立宗教化と道教〉
鎌倉時代から室町時代にかけて,修験霊山においては開山の伝記が創られ,崇拝対象
が定まり,組織や儀礼が確立しました。即ちまず鎌倉初期には金峰や熊野の修験者は役
小角を開祖に仮託して,その伝記『金峰山本縁起』(『諸山縁起』所収)を生み出しま
した。尤もその内容は前項において紹介しました『日本霊異記』所掲のものと殆ど同じ
です。ただ最後は役小角を唐国の四十人の仙人のうちの第三座としたり,道昭が新羅の
山寺において法華経を講じたときに第三の聖人役小角を始め神仙が集会してそれを聴い
たと云うようになっています。これらは平安時代には隠棲していた仙人がこの頃には集
団化したことを示しています。
『諸山縁起』には,金峰山や大峰の要事に関する先達の口伝が収録されていますが,
これに拠りますと役小角が修行道場とした大峰山には百二十の宿があって,三百八十人
の仙人が住んでいました。その中心は神仙岳で,此処に三重の岩屋がありました。この
岩屋には下の重に阿弥陀曼荼羅,中の重に胎蔵界曼荼羅,上の重には金剛界曼荼羅があ
り,各重に大壇が設けられていました。また上の重には棚があって二通の縁起を納めた
箱が置かれ,壁には役小角の御影像が描かれていました。縁起の一通には,役小角が大
唐第三の仙人の北斗大師を講師に招いて大峰山中の大日岳(仙岳)において三百八十人
の仙人と千塔塔婆供養を行ったことや,大峰山中の三百八十人の仙人集会の儀式のこと
が,今一通には熊野権現の由来,金剛蔵王権現湧出譚,役小角の本縁が記されていまし
た。この他大峰山中の仙洞には役小角の七生のうち三生まだの骸骨があったとされてい
ます。因みに時代は下りますが,江戸時代初期に室町・戦国期の役小角伝説をまとめた
『役行者顛末秘蔵記』においては,役小角の初生は迦葉,二世は老子,三世は役小角と
しています。また役小角は仙人となって諸山を飛行して修行したり,海上を歩いたり,
剣の刃の梯子を用いて天に登るなどし,死後は尸解したとの話を挙げています。
羽黒の開山は室町時代初期の伝承においては能徐とされていますが,『拾塊集』(元
亀年間,1570〜75成立)においては,能徐は羽黒山において藤皮を衣とし松果を食して,
般若心経の「能徐一切苦」の文を唱えて修行したので,能徐仙と云われました。彼はあ
る夜,蓬莱宮から宝珠を持って訪れた貴人が,鳥に姿を変えて月山山頂に導いた夢を見
て,月山を開きました。そして舒明天皇十三年(641)に死亡し,五色の雲に駕して月山
に入ったとしています。また九州の彦山修験に伝わる『彦山縁起』(室町初期成立)に
おいては,役小角が蓬莱山の薬,崑崙山の宝珠を求めて,彦山更に宝満山に登りました。
そしてその後自分は茣蓙ゴザに座し,母を鉢に乗せて海を渡って唐に到って崑崙山に上
り,西王母の石室に入ったとの話を挙げています。なお彦山は『鎮西彦山縁起』(1573
成立)には,北魏僧善正と猟師の忍辱(藤原恆雄)が宣化三年(538)に開きましたが,
その折善正は石窟に居して藤衣を着て,果ラ(草実)を食し石泉を飲んで修行し,恆雄
も藤葛の衣を着て修行したとしています。
鎌倉時代中期には金峰山の修験者の間において,役小角が金峰山上において守護仏を
求めて祈念をこめると,最初に釈迦,続いて千手,弥勒が現れ,最後に三尊の徳を一身
に備えた金剛蔵王権現が出現した,との金剛蔵王権現湧出譚が生み出されました。尤も
図像学的には金剛蔵王権現は執金剛神が展開したものとされています。
熊野三山の修験者は熊野権現を崇拝対象としていますが,長寛元年(1163)になる『
長寛勘文』所掲の「熊野権現御垂迹縁起」に拠りますと,熊野権現は中国の天台山の地
主神王子晉が日本に飛来し,九州の彦山,四国の石槌,淡路の諭鶴羽峰,紀州の切部山,
新宮の神倉・阿須賀を経て本宮に到来したのを,猟師の千与定が感得して祀ったとして
います。ところでこの王子晉は前漢(中国)末の劉向撰の『列仙伝』に挙げられている,
周の霊王の子で夭折して仙人となった王子晉(喬)です。王子晉はよく笙をしましたが,
道士の浮丘公と嵩高山に登って修行し,白鶴に乗って飛行したと云います。既述のよう
に『懐風藻』所掲の葛野王の詩にも詠われ,わが国においても広く知られていました。
このように熊野権現の本縁は中国の仙人とされているのです。
鎌倉時代初期の大峰山系に百二十の宿があり,三百八十人の仙人が居たとされたこと
は先に紹介しましたが,これに先立つ長承二年(1133)の『金峰山本縁起』には,百二
十宿中仙人が居た宿として,苫フク(草冠+口+田)輪,仙行寺,神仙,十性仙,行仙,
老仙,法浄山,当熟仙,戒経仙,王熟仙を挙げています。また既述の『諸山縁起』の別
項においては,大峰山中には三百人に仙人が居ましたが,地主・持経・竜角・如意・摩
尼の五岳仙を上首とするとしています。葛城山系においては鎌倉期には法華経二十八品
のそれぞれを納めた経塚が作られ,これを巡る峰入が行われました。その峰中の宿のう
ち,国見岳の仙処,高山寺石窟,仁照宿の仙窟,求仙ガ岳,神福山,久清仙の居た石寺,
二上山の岩屋の仙宮,神福寺,智助仙・寂能仙が居た二上岳,八葉ガ岳,石命仙の居た
石命山,火舎ガ岳が仙人の居所とされています。また上首の仙人として,高山・大福・
神福山・金剛・竜山の五角仙を挙げています。これらの伝承は大峰山や葛城山中に仙人
と受けとめられていた修験者の集団が存在していたことを示すと考えられましょう。
鎌倉時代の修験道においては峰入を中心とした儀礼が整ってきます。嘉暦三年(1328
)の『青笹秘要録』に拠りますと,峰入は大先達を中心として,宿・閼伽・小木・採灯
の四人の小先達が指導して集団で行われました。閼伽は谷の水を汲んで仙人に供えるこ
と,小木は採灯護摩の木を集めることです。なお峰中においては七日間の断食が行われ
ました。その後室町期に至ってより整えられた峰中の作法は,江戸期も踏襲されました。
時代は下りますが文政十年(1872)の『峰中式目』に拠りますと,吉野から大峰への峰
入においては,まず出立の七日前から精進潔斎に入ります。そして金剛童子,不動明王
の一尊法供養をします。なお熊野からの峰入においては,熊野本地供が行われました。
更に陀羅尼を唱え,役小角の法楽をした上で,抖ソウトウソウ(出家・行脚しながら人家で物
を乞う)の支度をし,道中の守護をしてくれる護法に法施をし,峰中の本尊などを入れ
た笈を受けて山に入ります。山中においては宿などの童子を拝しながら抖ソウし,宿に
おいては小木採り,断食,採灯,閼伽,潅頂などの作法が行われました。なお平安時代
末から室町期には,山伏を先達として熊野詣がなされましたが,この折には精進潔斎,
諸社拝礼後,日や方位を選び,道中を守護する伏見稲荷の護法を受けて出立します。そ
して,途中の王子において奉幣し,川や海において垢離を執って,熊野に詣で,牛王や
神木の梛を受けて帰る形が執られています。
ところで『抱朴子』には道士の入山修行が挙げられていますが,それでは,まず九字
などの呪文と禹歩を心得,凶日を避けて吉日に良い方角から入山すること,入山に先立
って七日間斎戒し,諸神を祀って,入山符や魔除けの鏡を持って山に入り,穀断の上で
修行がなされています。これを前述の山伏の峰入作法と比べますと,呪文,斎戒,諸神
の祭,穀断などの共通の面が少なくありません。熊野詣においては吉日や吉方位が選ば
れ,護法を受けて出立しています。尤も山伏は峰入には鏡を携行しないで,魔除けには
錫杖を用いています。また修験においては入山のときには禹歩を踏みませんが,羽黒修
験の峰中の固打木の作法や,採灯護摩の火箸作法などは類似の所作がなされています。
ただ道士は一人で入山して山中の窟において仙薬を作り,不老長生を図ったのに対し,
修験道においては集団で峰入して即身成仏を目的とする修行をしている点が大きく異な
っています。
さてこのように即身成仏を目指す修験道の峰入においては,地獄から餓鬼,畜生,修
羅,人,天,声聞,縁覚,菩薩を経て仏に到る十界のそれぞれに床堅,懺悔,業秤,水
断,閼伽,相撲,延年,小木,穀断,正潅頂の十種の作法を充当する十界修行がなされ
ていました。なおこのうちの床堅は自身即大日如来と観ずる坐法,業秤は不動石で修行
者の罪の重さを量る作法,延年は天道快楽の歌舞,正潅頂は仏の秘印を授かり自身即仏
の境地に入るものです。なおこのうち懺悔,相撲,延年,穀断は道教にも認められると
の報告もされています。
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