04 修験道と道教
修験道と道教
参考:春秋社発行「修験道と日本宗教」
〈序〉
周知のように修験道は,日本古来の山岳信仰がシャーマニズム,密教,道教などと習
合して十二世紀に成立したものです。そして修験道においては山岳修行によって超自然
的な験力を体得し,それを用いて呪術宗教的な活動をする修験者・山伏を中核としてい
ます。一方道教は,中国古代の様々なアニミスティックな民間の信仰を基盤とし,神仙
説を中心として,それに道家,易,陰陽,五行,緯書,医学,占星などの説や巫の信仰
を加え,仏教の組織や体裁に倣って纏められた,不老長生を主な目的とする呪術宗教的
傾向の強い,現世利益的な自然宗教です。
宗教は,自然発生的に生まれた生活慣習として存続し,特に他の民族などに布教する
ことを必要としない自然宗教と,イスラム教,キリスト教,仏教など特定の教祖が創唱
し,その教えを世界各地に弘めることを目指して教団を設立する創唱宗教に大別されま
す。そして自然宗教が創唱宗教を摂取して,成立宗教化したものを民俗宗教と呼んでい
ます。この場合には修験道も道教も,そして神道や陰陽道も民俗宗教に分類されます。
神道は,水田稲作を営む人々が霊山の水分神ミクマリノカミを山麓の神社に迎えて祀ったことに
始まりました。また陰陽道は,中国の讖緯シンイ説や陰陽五行説に主な淵源を持つ吉凶禍福
を判断する占法,呪法,祭祀とその信仰を指しています。なお仏教伝来後は,神道,修
験道,陰陽道と,仏教は習合しました。そして,これらのものが民間に沈潜し,自然宗
教と習合して残留したものが民間信仰です。一方中国の民俗宗教には道教や儒教があり
ます。儒教は四書五経を主要な教典として,祭天の古俗を中核とするものです。なお中
国においても道教や儒教,特に道教は仏教と習合しました。そうしてこれらが民間に沈
潜し自然宗教と習合した民間信仰の形で残存しています。
〈道教の伝播〉
中国においては,道教は種々の形で展開しています。その道教が留学僧などによりわ
が国へ伝播されて来ました。その多くが『抱朴子』内篇や『神仙伝』『列仙伝』『山海
経』などで,就中ナカンズク『抱朴子』がその中核となっています。
本稿においてはこのうち『抱朴子』と『神仙伝』を採り上げることにしましょう。『
抱朴子』は呉の葛洪(289〜363)の著で,道家について記した内篇二十巻きと,儒家を
論じた外篇五十卷があります。内偏は神仙方薬,鬼怪変化,養生延年,攘邪却禍を扱っ
ています。また『神仙伝』も葛洪の著で,九十余人の仙人の伝記や仙術が紹介されてい
ます。
本稿においては特にこの両者に観られる神仙思想,仙人譚,入山作法,呪法,符術,
仙薬,それと結び付いた鉱物,薬草などに注目します。
〈修験道の成立と道教〉
修験道の開祖に仮託されています役小角エンノオヅヌは,『続日本紀』文武天皇三年(699
)五月二十四日の条に拠りますと,葛城山の呪術師でしたが,妖惑の罪で伊豆に配流さ
れました。世間においては鬼神を使役して水を汲み薪を採らせ,命令に従わないときは
呪縛したとしています。葛城山に関しては既に『日本書紀』の雄略天皇紀四年の条に天
皇が狩猟に行かれた際,丹谷を望見する処において蓬莱仙のような長人に会い,名前を
尋ねると一言主神と名乗ったとの話を載せています。丹谷は道教における不死の国であ
る神仙世界であり,蓬莱山は東海にある仙境です。なお一言主神は『日本霊異記』にお
いては役小角の命に服さず呪縛された葛城の地主神とされています。
『日本書紀』にはこの他雄略天皇紀五年の条に葛城に霊鳥が現れた話,斉明天皇紀元
年(655)五月の条に,青い油の笠を被った唐人らしき人が葛城峰から生駒,住吉の松峰
に竜に乗って飛んで行った話が記されています。霊鳥,青衣,竜に乗って飛行すること
は,何れも道教の信仰に基づくものです。なお『続日本紀』に拠りますと,葛城山系の
主峰金峰山からは金剛砂(鑽)を産し,金剛山の名はそれに因むとされています。現に
二上山の近辺においては石英,雲母などを産しています。こうしたことから葛城山は仙
境とされていて,中国から帰化した道士が住んでいたとも考えられるのです。現に小角
が用いたとされる鬼神を使役する呪法は道教そのものです。また韓国連広足は,家伝『
武智麻呂伝』には呪禁師とされており,『東大寺要録』巻二所収の「辛国説話」におい
ても中国の道術・方術・符呪・呪禁の名手とされています。
『続日本紀』の二,三十年後に成立した『日本霊異記』においては,役優婆塞(小角
)は岩窟を居所として,毎夜五色の雲に乗って沖虚の外に飛び出し,仙宮の者と一緒に
修行しました。また葛の衣を着て,松果を食し,養生の気を吸い,清水の泉に沐して,
孔雀明王の呪法を修めて,鬼神を使役しました。そして鬼神に大和の金峰山と葛城山の
間に橋を架けさせようとしました。しかし葛城山の一言主神の讒言で伊豆に配流されま
した。伊豆においては昼間は島で過ごし,夜は富士に行って修行しました。三年後に許
されましたが,一言主神を呪縛した上で,仙人となって飛び去りました。その後道昭が
新羅において五百の虎の招きに応じて法華経を講じた際,その中に役優婆塞が居たとの
話を載せています。この役小角の,岩窟を居所として葛の衣を着て,松果を食し,養生
の気を吸って長生を図り,沖虚を出て五色の雲に乗って仙宮に赴いたり,鬼神を使役す
る修行や呪法は,一般に道士の修行とされているものです。
ところでこの役小角が葛城山から金峰山に橋を架けさせたとの話は,修験の勢力が葛
城から吉野・金峰山に及んだことを示しています。尤も吉野も古来仙境とされていまし
た。即ち『万葉集』卷三には吉野の味稲が仙媛拓枝と結婚する話が観られ,『日本書紀
』には天武天皇が吉野宮において五節の舞を舞う二人の仙女を見た話を上げています。
なお,万葉集には吉野を神仙境として称えた歌が四十余首挙げられています。また時代
は下りますが十一世紀末成立の大江匡房の『本朝神仙伝』には吉野の竜門山の岩窟に大
伴,安曇,毛堅の三人の仙人が居ました。このうちの毛堅が竜門岳から空を飛んで葛城
峰に行く途中,久米川において布を洗っている女性の内腿を見て通力を失って地上に落
ち,その女性と結婚しましたが,やがて夫婦共々西方へ飛び去ったとの話を挙げていま
す。因みに天智天皇の孫葛野王は『懐風藻』所収の詩「竜門山に遊ぶ」において,吉野
の竜門山に行き王子喬のような仙人の術を体得して,鶴に乗って仙境の蓬莱山や瀛州に
行きたいものだと詠っています。このように竜門山は古来,仙人の居所として広く知ら
れていた処なのです。なお『懐風藻』にはこの他に吉野の神仙境を詠った詩が十六首挙
げられていますが,この中においては既述の拓枝や漆姫などの仙女譚,吉野を西王母が
住む崑崙山に準えたものが注目されます。
周知のように吉野の金峰山は古来金の御岳と呼ばれ,地主神の金峰神社には金山彦神
と金山姫神が祀られていました。また金峰山には金があると信じていたようでして,聖
武天皇が東大寺建立に際して金峰の神に金を求められたところ,金峰山の金は弥勒下生
の際に用いるものですと断られた話や,京都七条の箔打ちが金峰山の金屑を持ち帰って
箔に打って売ったところ,金御岳の文字が現れたので捕まったとの話が伝えられていま
す。なお吉野の青根ガ峰から南流して丹生川上下社,丹生神社を経て吉野川に注ぐ丹生
川は水銀の鉱脈に沿っています。また同じく青根ガ峰から西流する秋野川沿いには黄金
山,白銀山がありますが,これらはかつて鉱山であったとされています。更に吉野川に
は柘榴草,軟草,吉野人参,石楠花などの薬草があり,これらを求めて山中に入って修
行した宗教者が人々から仙人と見なされたとも考えられましょう。
金峰山と共に修験道の中心地として盛えた熊野は,記紀神話においては伊弉冉尊の葬
地とされ,熊野市の花の窟がその地に比定されています。また大国主命を助けられた少
彦名神は,熊野の御崎から常世国に帰ったとされています。その後平安時代中期には本
宮・新宮・那智の熊野三山が成立しますが,本宮は阿弥陀の浄土,那智は観音の浄土と
されています。また新宮には蓬莱島があって徐福が到来したとの伝承が認められます。
この蓬莱島は現在の阿須賀神社背後の小丘に比定されています。なお熊野三山を蓬莱・
方丈・瀛州の三神山に準えたり,仙人の住まう処とする伝承も認められます。また十世
紀初頭に浄蔵が那智滝において,塩酢を断ち,松果を食し,蔦や苔を衣とし,法華経を
読誦し真言洛又遍呪を唱えて修行し,その結果護法を使役し,予兆力を得たとの話も伝
わっています。
なお本宮近くには金銀山,那智から本宮にかけては銅の鉱脈,熊野川中流には紀州鉱
山があり,色川の円満池においては金銀が採れたとされています。また熊野は薬草の宝
庫で,薬用植物は草百四十七,木五十五,計二百二種に及ぶとの研究報告もあります。
このうち仙薬に類するものにはイヌビユ(天仙草),オオツヅラフジ,センブリ,キハ
ダ,テントウ烏薬などがあります。特にテントウ烏薬は徐福が求めた仙薬とされていま
す。
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