0301a 修験道と仏教2
〈近代仏教教団と修験道〉
明治五年(1872)九月,天台宗・真言宗に寄生しながらも本山派・当山派と云う教派
を形成していました修験宗は,政府によって廃止されました。そして本山派は聖護院を
本寺とする天台宗に,当山派は醍醐三宝院を本寺として真言宗に一括加入させられまし
た。両派においては加入した修験者に修験の衣体の着用,修験的儀礼,組織活動を禁じ,
自宗の宗風や宗現に基づいて活動することを要求しました。また教団内の座次は仏教僧
侶の次席とし,潅頂や大法の導師を勤めることを認めませんでした。このように修験的
な活動を禁じると共に,修験者を一段低いものとして編入したのです。その後の取扱い
も同様でした。例えば醍醐派においては,同七年三宝院道場に加入修験者を集めて真言
宗得度式を行い,その後は修験の名称を禁じ,同九年の宗規においては雑衆,同十二年
にはこれを改めて近士と呼びました。
こうした政府の政策によって,仏教教団に包摂され,存続の危機を脅かされた修験者
の側においては,執拗な抵抗が行われました。再度の独立を図る試みもあったと云いま
す。島田蕃根(天台系),海浦義観(真言宗)などによって修験教学の振興が叫ばれま
した。大和の大峰山(山上ガ岳)においては官制の金峰山社奥の宮には参詣者は殆どな
く,当山派の集会所であった山中の小笹から移転された行者堂に修験者や信者が集まっ
たと云います。度重なる禁厭祈祷による医療の禁止(同七年,同十五年)にも拘わらず,
修験的な活動は広く行われました。私邸内の堂を用いて宗教活動をする修験者にとって
は,上知令も財政的にはさして影響しませんでした。
一方,修験道を併合した天台,真言両教団の側においては,天台宗においては同七年
に山門派と寺門派が分離し,真言宗においては智山派,富山派が醍醐寺から独立し,醍
醐派所属寺院が僅か百六十カ寺に減少すると云うように,宗派分裂に絡まる大きな変化
が生じました。寺門派中においては聖護院に包括された修験寺院が,醍醐派においても
修験寺院(八百四十カ寺)が,圧倒的多数を占めるようになりました。その結果これら
の教団においてはその形態を整え財政を確立するためには,修験に依存せざるを得なく
なりました。
天台宗寺門派,真言宗醍醐派両者の教団運営上の必要と,修験者の覚醒とがあいまっ
て,明治時代後半になりますと,仏教教団内において修験集団が活動を始めるようにな
りました。天台宗寺門派の聖護院は,大本山として修験者を統轄し,同十九年(1886)
には深仙潅頂を復活し,同三十二年(1899)には神変大菩薩千二百年忌を盛大に施行し
ました。天台宗においても金峯山寺を大本山として羽黒派も含めて修験者を統轄しまし
た。真言宗醍醐派においては,同三十二年(1899)神変大菩薩千二百年忌を行い,同三
十四年には近士を改めて修験部としました。尤も同派においては同三十六年には更にこ
れを恵印部と名称替えをしました。そして同四十二年,恵印部有志の集団「聖役協会」
から機関誌「神変」が発行され,同四十四年には花供入峰が復興しました。爾来,聖護
院の奥駆,三宝院の花供の峰入は恒例の行事となりました。
聖護院末の大阪府箕面山滝安寺,吉野喜蔵院,三宝院末の吉野鳳閣寺・洞川龍泉寺な
ど修験の由緒寺院も勢力を盛り返し,京阪神を中心とした数多くの大峰登拝の講社もこ
の両修験集団の傘下に加わるようになりました。これらの諸講社は,修験道廃止以後数
多くの地方末寺を失った修験集団の主要な構成要素となって行きました。また三宝院の
三光共立会など新興宗教的な集団も,修験集団に包括されました。こうして天台宗寺門
派,真言宗醍醐派と云う近代仏教教団に寄生した集団として修験道は蘇ったのでした。
仏教教団内において市民権を得たと云うものの,修験寺院は在来の仏教寺院からする
ば一段低いものと観られるとに変わりはありませんでした。こうしたことから,修験寺
院の中には,寺門派においては聖護院末から離れて園城寺に,醍醐派においては恵印部
から真言部にと云うように純粋の仏教寺院に変わることを希望するものが増えてきまし
た。特に醍醐派恵印部の場合には他の真言諸派に転入するものさえ現れ始めました。こ
の趨勢に則して醍醐派においては大正八年(1919)十二月三十一日を期して恵印部寺院
七百六十八カ寺を真言部に編入しました。ただし一代限りの修験者はこれに含めず,別
に組織を作って包括しました。この施策は醍醐派内の恵印部寺院の他派への転出を防ぐ
と共に,従来は個人持ちであった恵印部寺院の財産を法人財産とすることによって,醍
醐派の財政基盤を強固にすることに役立ちました。また一世修験者を三宝院の直接支配
とすることによって講社などの在俗修験者の掌握を容易にするなどの効果があったと考
えられましょう。
天台宗側においては,特にこうした再編の動きはなく,寺門派においては長吏が修験
道検校を兼ね,大本山聖護院門跡が修験道総監と称し,山門派においては,金峯山寺を
別格本山とし同寺住職を修験道管領として修験道を治めさせる方策が採られていました。
大正,昭和戦前の修験道は聖護院,三宝院などを中心としてより着実な活動が行われ
ました。教学面においては園城寺の三井富興,聖護院の宮城信雅,三宝院の大三輪信哉
・牛窪弘善・服部如実,羽黒の島津伝道などが数多くの著述を通して修験教学の樹立を
試みました。三宝院の「神変」と並んで聖護院においても雑誌「修験」が発刊されまし
た。両派とも講習会や学院を開き,修験者の養成に努め『修験聖典』を始め数多くの教
典,教科書などが出版されました。
恒例化した聖護院の奥駆,三宝院の花供の峰入の他に,御大典祝祷(昭和三年),高
祖降誕会(聖護院・同九年),醍醐天皇一千年御遠忌(三宝院・同3年),戦勝祈願の
祝祷(同十二・十三年)などにはより盛大な峰入が試みられました。深仙潅頂(聖護院
・大正十一年),恵印潅頂(三宝院)の伝授会も開かれています。大峰,葛城のみでな
く,木曽御岳,白山,石槌,宝満山など全国各地の修験関係の山岳への登拝も企画され
ました。昭和期に入って一般に広まった登山の隆盛と相まって,山岳修行は山岳会など
と共催の形を執ることも多かった。戦争中は皇民錬成の一手段として登山は奨励されま
した。
峰入の盛行は,大峰山における入峰拠点寺院の強化と登拝講社の隆盛をもたらしまし
た。聖護院は吉野の喜蔵院を,三宝院は洞川の龍泉寺を別格本山に昇格させました。金
峯山寺を中心とした吉野の東南院・竹林院・桜本坊も勢力を伸ばして来ました。そうし
て昭和十七年(1942)には,山上の大峰山寺は吉野四カ寺洞川一カ寺が輪番によって住
職を勤める天台真言共属の寺院として認証されることになりました。講社の掌握も積極
的に進められられました。既に聖護院においては大正末に神変教会の名の下に講を掌握
していましたが,昭和九年には平安連合会を作って京都の講社を,同十三年には大阪修
験道教会を作って大阪の講社を組織化しました。一方の三宝院においても京阪醍醐講社
を組織しています。また両者共に大峰山寺の役講との提携を試みています。聖護院,三
宝院の両修験集団はこれらの講社の基盤に立って成立していたとも考えられるのです。
昭和十六年仏教諸宗派の合同が政府当局によって強力に推し進められ,一宗祖一派の
建前で天台宗三派,真言宗八派がそれぞれ天台宗,真言宗に一括されました。この折,
天台宗においては山門派の金峯山寺と寺門派の聖護院の両者が主導権を巡って争いまし
たが,結局聖護院を修験道大本山,金峯山寺を別格本山とし,二法流を認めることで落
着しました。一方信号宗側においては既に三宝院が真言宗の修験全てを掌握していたこ
とから,ほぼ従前通りの機構の下で修験道の活動が続けられました。
第二次世界大戦後の宗教法人令施行は,七十年余に亘って仏教教団に所属を余儀なく
されていた修験集団にとっては,まさに待望のときでした。天台宗の金峯山修験本宗,
修験宗(現本山修験宗),修験道,羽黒山修験本宗,真言系の真言宗醍醐派を始め数多
くの修験教団が成立しました。またそれまで修験集団に所属していた真如苑,解脱会な
ど多数の修験系新宗教が出現し,法華系新宗教と並んで,新宗教の大きな潮流を作りま
した。修験教団はここにおいて名実共に復活したのです。
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