0301 修験道と仏教2
 
               修験道と仏教
 
                     参考:春秋社発行「修験道と日本宗教」
 
 〈仏教と教派修験道 − 本山派・当山派〉
 鎌倉新仏教は,宗祖とその教えを基に多くの場合は,京都の本山を中核とする教派組
織を形成しました。この動きは,これまでの修験霊山の別当や御師・先達・檀那を統轄
する組織に,大きな変化をもたらしました。
 即ち,熊野においては鎌倉時代末になって熊野三山を実際上支配していた熊野別当が
廃絶し,室町時代になりますと園城寺の重代職とされた熊野三山検校が熊野を直接支配
するようになりました。尤も十四世紀末頃からは,寺門派三門跡の一つ聖護院が熊野三
山検校を重代職とし,東山若王子乗々院を熊野三山奉行に任じてその実務に当たらせま
した。
 この経緯を今少し具体的に述べますと,十九代熊野三山検校良諭は,永徳三年(1383
)同検校が役小角正統の修験道の血脈を有するとして,大峰山中台の深仙において正潅
頂を開檀します。そしてこれ以来,聖護院においては足利将軍家の支援の下に,地頭の
熊野三山の荘園への侵犯を抑え,熊野山の所職を補任し,各地の熊野先達に先達職を安
堵しました。特に二十二代熊野三山検校の道興は,那智において修行をし,文正元年(
1466)に近畿地方・西国,文明十八年(1468)に北陸地方・東国,明応二年(1493)に
四国を巡錫して,熊野先達の直接的な掌握を試み,その跡を継いだ二十三代の道応は西
国,二十四代の道増は関東地方・東北地方を巡錫しました。そして十五世紀末からは,
熊野三山検校の聖護院門跡が各地の主要な熊野先達を年行事に補任して,霞と呼ばれる
その支配範囲を定め,其処に居住する山伏の支配,檀那の先達や配札の権利を認め,そ
の上分を得る形で統轄して行きました。なおこの統轄に際しては,既述の熊野三山奉行
の若王子を始めとする住心院・積善院・勝仙院・伽耶院などの院家が当たり,全体とし
て本山派と呼ばれる教派修験を形成しました。因みに本山派の「本山」は熊野を指して
います。ただ本山派全体は天台宗寺門派に包括されていたのです。
 既述のように,奈良時代には吉野の比蘇寺・室生寺など大和を中心に数多くの山寺が
造られましたが,平安時代以降も多くの山寺が山林修行者の道場として栄えていました。
なお山寺の多くは法相・天台・真言に属し,殆どが密教化していました。これらの山寺
や大和の寺院には学侶の他に,それに仕えたり,勧進に当たる堂衆・行人,山内の堂社
に供花する夏衆などが居り,その中には山岳修行を積んで修験となる者も多かった。当
時は御岳詣や熊野詣が盛行し,これらの修験の中には,吉野から熊野への抖ソウトウソウ(
手偏+數)するものも現れました。
 鎌倉時代末には,大和を中心に三十六余の寺院に依拠した修験の代表が,金峰山の奥
の小笹に集まるようになりました。彼等は東大寺において修行し,法相宗・三輪宗・密
教を修めた上で金峰山に峰入し,後に醍醐寺を開いた聖宝を伝説上の派祖に戴き,当山
三十六正大先達衆と云う結集を形成しました。この「当山」は大峰山を意味しています。
 当山三十六正大先達衆を構成する寺院は若干の移動もありますが,室町時代末から江
戸時代初期頃は,大和の中の川・菩提山実相院・鳴川千光寺・法隆寺・矢田寺・茅原寺
・金剛山寺・安部寺・信貴山寺・釜口長岳寺・菩提山正暦寺・多武峯寺・桃尾寺・三輪
山平等寺・内山永久寺・超昇寺・高天寺・霊山寺・吉野桜本坊・松尾寺・忍辱山円成寺
・橘寺・長谷寺,紀伊の粉河寺・根来寺の東と西・高野山,和泉の槙尾山施福寺・神尾
寺・朝日寺・高倉寺・和田寺・牛滝大威徳寺,摂津の丹生寺・河内の鷲尾寺・播磨の朝
光寺,山城の海住山寺・浄瑠璃寺・高雄神護寺・伏見寺,近江の飯道寺の梅本院と岩本
院,伊勢の世義寺などが認められます。
 これらの寺院においては代表の先達一名を選び,その先達が当山三十六正大先達衆を
構成しました。尤も各寺院の先達や修験は全国各地の回国して,弟子を作って行きまし
た。これを袈裟筋支配と呼んでいます。また各寺院を代表する正大先達は,配下に小先
達,地方に袈裟頭や帳元を置いて,それぞれの地域の袈裟下の山伏を支配させました。
各寺院から選ばれた三十六正大先達衆は年臈ロウによって,最長老を大宿とし,次いで二
宿・三宿を決め,この三人を中心に峰入期間中に小笹において集会して,各正大先達に
属する山伏の補任・昇進などの諸事を決定しました。その際補任状の類には三者が連署
し,その弟子の師匠に当たる正大先達が裏書きをして発行しました。
 このように当山派は当山三十六正大先達衆の座とも云える組織でした。けれども戦国
時代になって本山派との間に出入が興り,より大きな権威の後ろ盾を必要とするように
なって来ました。そこで慶長(1596〜1615)の初期,これまでの経緯も考慮して,聖宝
が開基した醍醐三宝院を棟梁に戴くことになったのです。なお江戸幕府はそれまでの本
山派の修験一円支配を嫌い,当山派と競わせて勢力を削ぐことを考えました。そこで三
宝院門跡の義演を当山派の棟梁とし,慶長十八年(1613)に本・当各別として,本山派
が当山派の山伏から入峰役銭を徴収することを禁止した修験道法度を定めたのでした。
 以上,本・当両派の形成の経緯を跡付けて観ました。これを含めて両派においては次
の四点において,鎌倉新仏教の教派形成の影響を受けていることが推測されます。
 第一は,両派はそれぞれ宗祖に当たる宗教者として,本山派は役小角,当山派は聖宝
を定め,その像を崇め神格化した伝記が創られたことです。
 第二は,峰中作法や呪法とその意味付けを記した切紙集成の形の教義書が編まれたこ
とです。
 第三は,地方の先達を直接掌握する全国組織が作られたことです。その際,当山派は
聖護院門跡と院家が権力を握り,当山派は先達衆の合議に基づく支配の形を執っていま
す。
 第四は,本山派は天台宗寺門派,当山派は真言宗の醍醐三宝院,即ち最終的には天台
・真言の中心勢力を背後に戴き,それに包摂された形の教派として存続したことです。
なおこのことは,これまで観てきたように修験道の歴史の当初から観られたことです。
それ故,一言で云いますと修験道は近世末まで制度的には仏教に半ば寄生する形におい
て展開して来たと云えるのです。
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