03 修験道と仏教1
修験道と仏教
参考:春秋社発行「修験道と日本宗教」
〈山林修行と山寺〉
わが国においては弥生時代以降,定住して水田稲作を営むようになって以来,山岳は,
水を与え農耕を守る山の神の住まう霊地として崇めて来ました。そして更に山岳は祖霊
の居所とされ,山の神は祖霊が神格化したもので,春先に里に下りて子孫の農耕生活を
守り,秋には山に帰るとの信仰にと展開しました。こうしたことから,山麓に神社が造
られ,春祭・秋祭が行われ,これが体系化して神社神道になって行ったのです。
山岳は今一方において魑魅魍魎の住まう魔所としても怖れられました。里人等は神霊
や妖怪などの居る山岳を聖地として崇め,山岳に入ることを慎みました。尤も山岳には
既にそれ以前から狩猟・木こり・採掘などを仕事とする山民が居て,獲物・木・鉱物な
どを与えてくれる山の神を崇めていました。
ところで云うまでもなく仏教は,インドにおいて釈迦(紀元前463~同383頃)が創唱
した宗教です。人生の問題に悩んだ浄飯王の子悉達多は家を出て,山林において修行の
末に,人生は苦であり,その根源は人間が抱く集(欲望)にあります。その欲望を滅す
るためには八正道を修めなければなりませんとの苦集滅道から成る四つの真理(四諦)
を悟ります。そしてこの教えを説き,こうした悟りを得るためには,一定期間山林に安
居して禅定に入るように薦めたのです。この仏陀の教えはその後,一切の存在を空とす
る般若思想,万物の根源を心に置き,ヨーガの実践によって心を変革しますと悟りに達
し得るとする唯識の思想にと展開しました。この唯識の思想は玄奘(602~664)によっ
て唐にもたらされ,法相宗ホッソウシュウを生み出しました。そして,道昭(629~700)によっ
てわが国に招来されました。これが奈良の元興寺(南寺)・興福寺(北寺)で栄えたわ
が国の法相宗なのです。
さて奈良時代初期に元興寺に来た唐僧の神叡は,吉野川の北側の比蘇寺に二十年間に
亘って篭もって,虚空蔵菩薩を本尊として修行し,自然智を得ました。この自然智は,
ヨーガの観法によって得られる仏梵一如の境地を指し,その実践は自然智宗と呼ばれて
います。その後比蘇寺においては,大安寺において華厳・戒律・禅・天台を説いた唐僧
の道睿(王偏+睿)も自然智を求めて修行しました。因みに最澄は,青年期に道睿(王
偏+睿)の弟子で比叡山の南の神宮禅院において如来禅や天台を説いた行表の下で学び,
自然智宗にも触れています。一方,興福寺の賢景(王偏+景)とその弟子修円は,天応
元年(781)頃,室生寺を開き,此処を興福寺僧の修行道場としました。此処には初代比
叡山座主義真の弟子円修が入山しています。この他大安寺の道慈は竹渓寺を開きました
が,その孫弟子の勧操は空海の師です。また,金峰山において修行して醍醐寺を開き,
後に当山派修験の祖された聖宝は,勧操の孫弟子に当たっています。
山林修行は中国の道教においても盛んに行われました。この場合は,泰山・霍山・華
山・恒山・嵩山の五岳などにおいて不老長生の仙人を目指して修行するものです。ただ
道教は,中国の民間信仰を集大成したもの故,組織的な形においてはわが国には入りま
せんでした。けれども吉野・葛城などに道教の神仙境を求めて修行する宗教者を生み出
しました。また僧侶の中にも前述の官僧の他に,金峰山において観音の呪法を修め安禅
寺に宝塔を建立した報恩,その弟子で京都の清水寺を創建した延鎮,葛城において修行
し,道教の影響を受け,後に修験道の開祖に仮託された役小角,葛城山寺において沙弥
行をした行基(666~749),矢張り葛城において苦修練行した道鏡のように,山岳にお
いて修行したいわば民間僧とも云えるものも認められます。
山岳を神霊の住まう霊地として崇め,山麓に神社を造ってその祭りをして豊穣を祈っ
た水田稲作民等は,当初は,霊山に入って修行する僧侶を戸惑いの感情で観ていたかも
知れません。けれども彼等が法華経を読み陀羅尼を唱えて,治病・祈雨などに効験を示
すにつれて,次第に畏敬し,その活動を期待するようになって行きました。そして山林
修行者がこうしたことを成し得るのは,神霊の住まう霊山に篭もって修行することによ
って,神霊と一体化してその力を得たり,神霊を自由に操作する力を体得したことによ
ると信じるようになって行きました。葛城山の鬼神を使役して葛城から金峰への岩橋を
作らせた役小角,金峰山において修行して呪験力を修め孝謙天皇や桓武天皇の病気を治
した報恩,興福寺において仏教を学んだ後熊野において治病で知られた永興などの話は,
何れもこうした信仰に基づいているのです。
平安時代になって最澄が比叡山,空海が高野山を開き,天台真言の密教僧が活動した
のは,彼等が既に飛鳥・奈良時代から始まった山林修行の系譜に連なると同時に,里人
等の山林修行者への呪験力に対する期待があったからなのです。
〈密教と修験 - 比叡山と高野山〉
近江国の帰化人を祖とする最澄(767~822)は,入唐して天台の付法を受け,比叡山
において天台宗を興しました。そして弘仁九年(818)「山家学生式」を定めて,比叡山
の大乗戒の受戒者に十二年間の篭山修行をさせました。なお彼は空海から密教を学びま
したが,更に弟子の円仁(794~864)に入唐して密教を習得させました。この天台の密
教(台密)はその後義真の弟子円珍(814~891)によって確立されました。その後円珍
門下は円仁門下との対立を避けて,円珍が再興した旧大友家の氏寺園城寺(三井寺)に
移り寺門派を樹立しました。この派は比叡山の山門派に比して,密教をより重視する立
場に立っています。
一方,讃岐国出身の空海(774~853)は青年期に,阿波の大滝岳,土佐の室戸岬,大
和の金峰山などにおいて修行し,更に勧操の下において虚空蔵求聞持法を修めました。
そして三十一歳で入唐し,恵果から密教の潅頂を受け,秘法を授けられて帰国し,真言
宗を創始しました。その後弘仁七年(816)高野山を開き,此処を真言宗の道場としまし
た。高野山の開創に関しては,霊地を求めて旅をしていた空海が大和国宇智郡において
二匹の犬を連れた猟師(狩場明神)と会い,その案内で高野山の山の神(丹生津比売神
)からこの地を譲られたとの『金剛峯寺建立修行縁起』に説く伝承が広く知られていま
す。空海は更に弘仁十四年(823),東寺を勅賜され,此処を真言宗の根本道場としてそ
の教化に努めましたが,承和二年(835)高野山において死亡しました。
高野山は空海の死後,甥の真然に託されました。彼は高野山座主職を設け,弟子の寿
長を初代の座主としました。以後はこの職は無空・峰禅・峰宿と続きましたが,彼等は
何れも高野止住の山人の流れを汲む者です。この峰宿が座主のとき,東寺長者で初代醍
醐寺座主でもあった観賢(843~927)が,高野山座主を兼職しました。彼は奏上して空
海に弘法大師の諡号シゴウを授かると共に,空海は高野山において生き続けているとの入
定信仰を弘めて,高野山を隆盛に導きました。こうした経緯を経て平安時代には比叡山
・園城寺を中核とする天台宗の密教(台密)と,東寺・高野山・醍醐寺などによる真言
密教(東密)が盛行し,山林修行をし,密教の修法を修め加持祈祷に秀でた験者が,多
くの人々の帰依を得たのです。
ところで「修験」と云う語は,平安時代初期頃に,加持祈祷に秀でた験者を呪法を修
得して験力を得た者とか,山林修行を行って呪験力を得た者を修験に秀でていると云う
ように云ったことに淵源を持っています。そして平安時代中期以降になりますと,密教
者等の間において次第に験を修めるための山林修行の方法が定まって来ます。こうした
点においてまず注目されるのは,比叡山に無動寺を開いて回峰法を始めた相応(831~
918)です。
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