03a 修験道と仏教1
 
 相応は『天台南山無動寺建立和尚伝』(1111年以前成立)に拠りますと,十七歳で比
叡山において剃髪し,それ以後六,七年に亘って毎日根本中堂に供花しました。二十五
歳のとき,これを座主の円仁に認められて年分度者に加えられ,不動法・護摩法などを
授けられました。そして比叡山の南に草庵(後の無動寺)を設けて,其処を拠点に山内
を巡拝する法華経の堂不軽の行をしました。更に貞観元年(859)から三年間に亘って,
比良山西麓の葛川の滝に安居して穀断をしました。その折葛川の地主神志古淵明神の導
きで,滝中の霊木に不動妙応を観じ,その霊木で不動明王を三体作り,葛川明王院,無
動寺,滋賀県蒲生郡の伊崎寺に祀ったと云います(『参篭旧記』)。彼はこうした修行
によって験力を得,右大臣藤原良相の娘西三条女御,清和天皇,宇多天皇など多くの人
々の病気を治し,生身の不動明王と崇められました。なお,彼が比良山麓の葛川に篭も
ったのは,当時この地において静安などの天台僧が抖ソウトウソウ(手偏+數=行脚して人
家に就きて物を乞うこと)行脚や仏名経読誦の修行を行っていたのに触発された,と考
えられます。因みに現在七百日に亘る回峰後,九日間堂入りし,その後更に三百日洛中
洛外を廻って加持などをする比叡山の回峯行は,相応が始めたものとされています。
 高野山においては,東寺長者の観賢が座主となり,この職が東寺の重代職となって以
来,密教を学ぶ学侶が一山の中心をなしていました。一方古来の山人の子孫や近隣の篤
信者は,山内に庵を構えて初夜・後夜の鐘を突いたり,山内の堂社に供花するなどの奉
仕(雑役係)をしました。彼等は行人とか承仕ショウジとか呼ばれましたが,その嚆矢コウシ
は大治五年(1130)に奥院の拝殿に初めて三口の承仕を置き,香花・仏餉ブッショウ(供米
)などのことを勤めさせたことに始まるとされています。特に四月から七月にかけての
夏中,九十日間に亘って山内の堂社に供花し,最後の七月一日から三日間に亘って蓮華
会を行った行人ギョウニン(行者)は,夏衆と呼ばれました。また栄治(1141〜42)以前頃,
行人のうちの山伏が柴灯護摩を施行しています。なお行人は山内を巡る回峰行をしてい
ました。因みに高野山においては十一世紀末以降は弘法大師の入定信仰や念仏を唱道す
る高野聖が活躍しました。このように高野山は全体として学侶・行人・聖の三種の宗教
者から成り立っていましたが,特にこのうちの行人から修験が育まれました。中でも高
野山山麓の天野の丹生郡比売神社の長床を拠点とした長床衆と呼ばれる山伏は,葛城先
達として知られていました。
 この高野山に観られるように,古代末の全国各地の霊山の一山寺院は多くの場合,別
当や座主などの支配職,学侶・社僧など主として清僧の専門宗教者,行人・承仕などこ
れに奉仕して堂舎の供花や掃除に当たるものから構成されました。なおこれらの一山寺
院は,比叡山・興福寺・東寺など中央の大寺と結び付きながらも,それぞれが半ば独立
し,主として密教に重点を置いて加持祈祷に勤しんでいました。そして高野山に観られ
ましたように,一山構成員の行人・承仕の中から,修験として崇められる宗教者が育ま
れたのです。それ故こうした修験者が密教の大衆化に寄与したと考えることもできるの
です。
 
〈修験霊山の成立 − 金峰山と熊野〉
 古代末になりますと,中央においては金峰山(御岳)・熊野など,特に修験者が集ま
る霊山が知られるようになりました。このうち金峰山には既述の報恩が吉野川の南の青
根ガ峰に法塔院を創設しました。空海や最澄の弟子光定も金峰山において修行しました。
また東大寺においては法相・三論などを学び,後に醍醐寺を開いた聖宝(832〜909)も
金峰山において修行しました。吉野が弥勒に始まる法相宗の道場であったこともあった
でしょうか,末法思想が隆盛しますと,その奥の金峰山は弥勒下生の地とされ,藤原道
長など貴族の間において御岳詣が隆盛し,経塚が作られました。道長は修験で知られた
観修に祈祷をもさせています。金峰山には金剛蔵王権現が祀られてましたが,平安末に
なりますと,金剛蔵王権現を役小角が金峰山上の岩から湧出させた神格とする信仰が生
み出しました。金峰山には山上・安禅・山下の蔵王堂,石蔵寺・一乗寺などの寺院が建
立され,白河上皇・堀河上皇・鳥羽上皇等が御幸されました。
 吉野一山は白河上皇のときに始まる執行によって統轄されましたが,その後寛治七年
(1093)には興福寺が同寺の貞禅を金峰山検校に補して支配しました。爾来吉野一山は,
興福寺の支配の下に執行が運営する修験一山として隆盛しました。
 熊野は本宮・新宮・那智の三山から成り,それぞれに神社が設けられていました。ま
た既述の永興や,那智山において火定した応昭など,数多くの山林修験者が訪れました。
寛治四年(1090)に熊野御幸された白河上皇は,先達を勤めた園城寺の増誉を熊野三山
検校に補し,熊野に在って三山を支配していました別当の長快を法橋に叙しました。こ
れ以来熊野三山検校は半ば園城寺の重代職となりました。尤も室町時代中期以降は,こ
の職は園城寺末の聖護院門跡の重代職となって行きました。
 熊野には,院政期は皇族や貴族,中世に入りますと各地の武士や庶民の参詣が相継ぎ
ました。檀那と呼ばれた参詣者は,熊野において修行した修験者を先達として熊野詣を
し,山内に居住して祈祷・案内・宿泊の便を図る御師に願文を提出しました。この先達
を媒介とする師檀組織が中世期の熊野を支えたのです。
 なお本宮においては社殿前の長床,新宮においては矢張り長床と神社の背後の神倉,
那智においては滝が,修験者の修行道場とされました。やがて熊野の修験者が,熊野か
ら吉野へと大峰山系を抖ソウトウソウ(手偏+數)するようになって行きました。また逆に
金峰山や大和地方の修験者は,吉野から熊野まで抖ソウしました。
 熊野三山にはそれぞれ熊野十二所権現と総称される十二の神格が祀られましたが,特
に本宮の主神家津御子神(本地阿弥陀),新宮の主神速玉神(本地薬師),那智の主神
牟須美神(本地千手観音)の三所権現と,若宮(本地十一面観音)が崇拝されました。
そして本宮は阿弥陀の浄土,那智は観音の補陀洛浄土とされ,那智の浜辺の補陀洛山寺
においては補陀洛渡海が行われました。また那智山には如意輪観音が祀られ(現青岸渡
寺),西国三十三観音巡礼の第一番の札所とされました。
 中世期に入りますと,東北地方の羽黒山,北陸地方の白山・立山,関東地方の日光,
駿河の富士山,木曽御岳,伯耆大山,伊予の石槌山,豊前の彦山など,全国各地の修験
霊山が発達しました。概してこれらの修験霊山は,前掲の高野山・比叡山などの仏教の
霊山と次の二つの点において相違しています。
 まず第一は,修験霊山の中心神格は,金剛蔵王権現や熊野十二所権現に代表されるよ
うに山の神が示現した権現で,後にその本地として仏菩薩が充当されています。これに
対して仏教の霊山においては仏菩薩が本尊とされています。第二は,修験霊山において
は,山内において主導権を握って一山の運営に当たっていますのが,仏教の霊山によう
に学侶ではなく,行人僧,就中修験者・山伏です。
 ところで地方の修験霊山を観ますと,羽黒・白山・日光・富士・彦山は熊野,そして
木曽御岳・伯耆大山は金峰と云うように,中央の修験霊山の影響を受けています。特に
中世期には熊野の影響が全国の殆どの霊山に及んでいました。けれども羽黒・彦山・白
山・立山・富士など,地方にあっても大きな勢力を持った霊山においては,やがて中央
の霊山の影響を受けなくなって行きました。尤も中央の修験霊山は,金峰山は興福寺,
熊野は園城寺と云うように政治権力と結び付いた中央の後ろ盾を得て存続したのです。
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