02c 『観音経』と道教
 
〈現世利益的な観音信仰〉
 次に『観音経』の内容は,どのような点において道教的性格を持った仏教教典である
のか,どのような点で中国人的体質や気質,好みに合っているのかという点について,
簡単に述べます。
 第一に,『観音経』は,仏教の教義の根本である解脱ゲダツとか悟りの智恵とか云った
宗教的課題については,真っ向からは説いていません。如何にして悟るのかとか,修行
するのかと云ったようなことも全く説かれていません。専ら観世音菩薩の御名ミナを称す
ることと,名号を受持することの功徳が繰り返し説かれているだけなのです。御名を称
すれば,その御名の神様と同じ力が授けられるというのは,中国に古くからある信仰で,
道教の教典の中に多く観られる禁呪というのも,この称名の思想と密接な関係を持って
います。
 この称名の思想はまたインドの仏教にもあり,中国の道教にもあったという考え方も
できます。どちらがどちらに影響したかということは,学問的には難しい問題ですが,
共通に観られるという事実に我々は注目したいと思います。
 特に道教の場合,人間の体内には天地八百万神と同じものが宿っていて,この神々が
陰陽の均衡(バランス)を崩すと病気が発生すると説きます。従って病気になった部位
に宿る神の御名を称えると病気が治るというのです。
 第二に,御名を称えるということは,浄土教の教典である漢訳『無量寿教』にも説か
れています。「南無阿弥陀仏」と云って阿弥陀仏の御名を称える,即ち念仏によって救
われるというのが浄土教の根本的な考え方です。しかし念仏称名が極楽浄土での往生,
安楽国に生まれ変わるという信仰に支えられているのに対して,『観音経』の称名の功
徳は,極めて現実的,現世利益的であるというのが,両者の大きな相違点です。
 例えば『観音経』の中には,宝物を持って売り捌サバきながら旅を続ける商人の集団が
あって,途中で盗賊に遭わないように,また遭っても危難を逃れることができるように
しようとすれば,観世音菩薩の御名を称えなさいと説きます。また処刑の場に臨んだ死
刑囚であっても,その罪の如何を問わず,観世音菩薩の御名を称えれば,解き放たれる
と説かれます。或いはお産のとき男の子と女の子の産み分けさえ,観世音菩薩の御名を
称えれば,その願いが叶えられると説かれます。
 こういう現世の利益に重きを置く考え方は,極めて中国的であります。例えば,儒教
の『論語ロンゴ』の中において,「死後はどうなるのか」という弟子の質問に対して,孔
子は「未だ生を知らず,焉イズクんぞ死を知らんや」と答えていますが,これは「生きて
いるこの世こそが大事なのだ。人間がもし死んでも意識のあるものならば,死後の世界
のことは死んでからゆっくり考えればいい。もし意識がないのであるならば,考えよう
がないのだから問題外である」ということです。
 このような現世主義は,中国の思想に一貫して根強く観られる考え方でした。道教も
この考え方を濃厚に受け継いでいて,肉体を伴わない霊魂のみの救済ならば無意味であ
るとするのです。つまり徹底してこの世の生を重んじるという考え方です。勿論,後に
は仏教の影響を受けて部分的には変わる面もありましたが,全体としては徹底した現世
主義であり,その点で『観音経』と非常に共通するものを持っています。
 第三は,『観音経』の功徳は,霊魂だけの救済を説くのではなく,肉体を伴った霊魂
の救済を説くことにあります。若しくは宗教の対象を肉体を持った生身の人間として捉
え,それを救済するということであり,身に即して仏になるという考え方です。即身成
仏という考え方は,6世紀の道教教典に既に観えていますが,仏教では真言密教がそれ
を強調しています。わが国の弘法大師(空海)の真言宗がそれです。
 即身成仏の思想も,道教と仏教(密教)の何れが先か後かはなかなか難しい問題であ
り,関係も入り組んでいて簡単には説明できませんが,両者に共通していることだけは
確かな事実です。ですから『観音経』の中の「大火に入るとも身を焼く能アタわず」とい
うのは,炎の中でも肉体は保持されているということであり,また「大水の漂わすとこ
ろ溺れ死なず」という風に,肉体を重視し,肉体を持ったままの解脱を説くのが『観音
経』の特徴であると云えます。
 肉体を重視する思想は,中国に古くからあり,例えば親孝行の徳を説く『孝経コウキョウ』
には,身体髪膚ハップを毀傷キショウしないことが孝の始めとされています。現在の中国にお
いても,角膜銀行(アイ・バンク)の希望者を募っても殆ど反応がないとのデータもあ
ります。仮令タトイ自分の眼球が他の人の役に立つとしても,そのような功徳の施し方に素
直に付いて行けないという,このように中国には肉体を重んじるという考え方が昔から
根強いのです。
 第四は,仏教の教義においては一般に否定的に考えられる人間の世俗的・物質的な欲
望や情念が,『観音経』では一概に比定されないで一応認められています。ただし,欲
望の充足を無条件に認めるのではなく,「南無観世音」と名号を称えることによって正
しく実現されると説かれる訳です。人間が現実の生を全うすることが問題であって,様
々な欲望を持った人間が欲望を持ったままで救済されるという考え方が『観音経』には
顕著であり,この点は全く道教と一致します。
 第五は,『観音経』においては,観音は菩薩と呼ばれていますが,実質的には中国古
来の信仰の対象であった大神,若しくは天神と全く同じような性格の超越者,絶対者と
して説かれています。ですから,菩薩という言葉を天神とか,大神という言葉に置き換
えても,そのまま通用します。即ち,インド的な仏陀や菩薩というものの中国的な転身,
若しくはインド的な仏から中国的な神への転化という見方が此処では十分に可能ではな
いか,ということです。つまり菩薩の宗教である大乗仏教から,天神の宗教である道教
へと変わって行く過程が,この『観音経』には顕著に観られるということです。
 要するに『観音経』の内容は,思想的には中国古来の安楽の道の教えの延長線上に位
置付けることができ,その意味においては,六朝リクチョウ以後の道教の教理とも内容的に共
通し類似するものを多分に持っているということです。『観音経』が中国で六朝以後熱
烈に信仰され,また『観音霊験記』の類の文献が大量に作られたのも,以上述べたこと
と密接に関連していることは云うまでもありません。
 『観音経』は中国の社会において,特に生命の危険に曝されることの多い職業,例え
ば漁業,海運業などに従事する人達から熱烈に信仰され帰依されてきました。わが国の
熊野の補陀洛フダラク信仰が,中国の舟山列島の観音信仰を海路日本へ伝えて来たものであ
ることはよく云われるところですし,また浮き沈みの激しい商業従事者達,一般的には
病気や貧しさに苦しむ人達にも篤く信仰されてきました。
 以上述べましたように結論として『観音経』は,中国的な性格を最も強く持つ仏教の
教典であり,中国の道の教え,つまり道教と共通するものを極めて多く持っている,と
いうことになります。
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