02 『観音経』と道教
 
             『観音経』と道教
 
               参考:人文書院発行福永光司氏著「道教と日本文化」
 
                        本稿は,福永光司氏著「道教と日
                       本文化」を参考にさせていただきま
                       した。
                        中国における基本的な宗教は,古
                       くは儒教の教えとも相通ずる道教で
                       す。一般的にはこの道教は,殆ど日
                       本には影響を与えていないとされて
                       いました。
                        しかし本書は,儒教とともに道教
                       もまた,日本人の思想の根幹として
                       採り入れられている,と指摘してい
                       ます。
                        本稿における道教とは,陰陽五行
                       説の哲理など,古代中国から受け継
                       いできた思想を全て網羅した,広義
                       の道教です。       SYSOP
 
 『観音経』と道教 − 日本人の観音信仰によせて
 
〈中国仏教の伝来〉
 日本仏教において『観音経』とは,仏教の教典である『法華経』の中の普門品第二十
五を特に抽出したお経です。
 道教は中国に古くからある中国人の民族的な宗教です。道教という言葉自体は,古イニ
シエの聖王が行った正しい道の教えという意味で,西暦紀元前4〜5世紀頃,当時日本は
縄文期でしたが,中国では春秋戦国時代と呼ばれていたその頃から既に用いられていま
した。このことは『墨子ボクシ』という書物の中に観られますが,この道教が仏教と並ぶ
中国人の民族的な宗教として成立するのは西暦2世紀の,後漢の時代の中頃からです。
 後漢というのは,日本と中国との交渉が初めて中国の歴史書に載せられた時代です。
このことを実証する考古学的に遺物としては,九州の志賀の島に埋もれていた漢の倭奴
国王ワノナコクオウの金印が出土しています。また奈良の東大寺山から,後漢の年号である「中
平」の文字が刻まれた剣が発掘されています。このように文献や考古学の上でも実証さ
れていますので,日本と中国との実際の交渉は,もっと古い時代にまで遡るだろうと推
測することができます。
 そういう後漢時代の中頃,漢の皇室の劉リュウ氏と郷里を同じくする張陵(道教では張道
陵と云います)という人物は,蜀ショクの国(現在の四川省)の鵠鳴コクメイの山上において,
天上の神仙シンセン世界に住む太上老君タイジョウロウクンの教誡キョウカイを受け,この道の教えを説き
ました。太上老君とは,それまで哲学者だと云われていた老子ロウシが神格化されたものと
され,2世紀の半ば頃,神様として天上の神仙世界に住んでいたとされていました。そ
の神様が天上世界から地上の人々の生活を眺めていて,どうも政治がおかしい,乱れて
いる,人民は苦しんでいるという時,地上の世界へ下りて来ていろいろとお告げをする
のです。これが道教の教誡です。この場合,太上老君が蜀の鵠鳴山において張道陵に説
いたお告げは,「正一盟威の道」の教えと云われています。つまりこれは一種の「道の
教え」であり,其処から道教が始まったと伝えられています。
 
 ところで,今までの考え方では,仏教と道教とは全く対立し矛盾する別個の宗教と云
われてきたのですが,こういう考え方は,仏教をインド仏教の意味に解釈するときは,
可成り当を得ていると云えます。
 しかし,中国仏教はインド仏教とは大きく性格を異にしています。インドにおいて成
立した仏教が中国に伝わりますと,宗教として変わってくるという事実に注目しなけれ
ばなりません。インドから中国に仏教が伝わって来ますと,教典が全て漢訳されてしま
います。ということは,それ以前に既に高度の発達を遂げていた中国の漢字の文化の中
に,インドの仏教が組み込まれてしまうということを意味するのです。このことは,中
国朝鮮から仏教が日本に伝わって来たときとは,全く事情を異にするのです。
 仏教伝来の当時の日本の文明・文化の程度は低いものでした。未だ文字もなく,人々
の生活も縄文・弥生期の素朴な暮らしから抜け出るか出ないかと云った低い段階でした。
このような状態では仏教の教典を日本語に翻訳するなどということは,到底不可能でし
た。ですからその頃から,現在に至るまでも一般的には,漢訳された中国の教典をその
まま音読みしているとい状況なのです。
 しかし,中国は西暦紀元前10世紀頃から非常に高い文明を形成していたので,インド
から仏教が西暦紀元前後に入って来ますと,その教典は全て漢訳され,全面的に漢字文
化の中に組み込まれてしまいました。『観音経』をその中に含む『法華経』も勿論そう
です。教典は全て漢文で書かれているのです。ですから同じ仏教と云っても,中国に伝
わって来て漢字文化に組み込まれ,中国の社会で信仰され実践されていた中国の仏教と,
本来のインドの仏教とが,内容的にそのまま同じである,とすることは出来ない訳です。
 こういう視点に立って中国仏教を考えて行きますと,道教と中国の仏教とが全く別個
のものであるという考え方もおかしくなってきます。
 従ってまた,更に注目しなければならないのは,日本に伝わって来た仏教も,インド
から直接渡って来たのではなく,中国において漢字文化に組み込まれものが朝鮮(百済
クダラ)を経て,日本に伝来したということです。
 
 それでは同じ仏教でありながら,インドの仏教と中国の仏教とは,一体どのように違
うのでしょうか。中国の思想史を専門に研究する学者の立場として,筆者はその違いに
ついて,次の四つの段階に分けて検討を加えてみました。
 第一は,仏典が漢訳される場合に,仏教の教理の中の重要な言葉は,どういう漢語(
つまり中国語)に置き換えられているのかということです。例えば,仏教の基本的な真
理は,サンスクリット(梵語ボンゴ)で云えば「ボーディ」ですが,これを音訳すると「
菩提ボダイ」となります。それに対して意味を当てて意訳する場合,菩提に「道」,即ち
老荘ロウソウ(老子・荘子)の哲学の根本概念である「道」を当てます。また仏教の究極的
な境地を「涅槃ネハン」と云いますが,サンスクリットでは「ニルバーナ」と云い,これを
意訳すると,老荘の哲学の「道」と同義語である「無為」という言葉が当てられます。
仏教の真理の担い手,つまり沙門(僧侶のこと)を中国では「道人」と訳しますが,こ
れも仏教が中国に渡る以前に老荘の哲学で使われていた言葉でした。このように以前か
らあった老荘の哲学や用語を土台にしてインドの仏教を受け入れて行った訳です。従っ
て菩提の教えは道の教え = 道教と云う風に訳され,また理解されますから,現在の浄
土教,特に浄土真宗系の根本教典である『無量寿経』の中には,阿弥陀如来の教えが道
教と訳されていて,4回出処します。
 第二は,インドの仏典を梵本と云いますが,それを中国語に訳したものが漢訳仏典で
す。日本や朝鮮を含む東アジアの仏教は,具体的には漢訳仏典に基づく仏教の教えです。
中国の僧侶達の殆どや学者達は,漢訳された仏典に基づいて仏教の教理を研究しました。
一つ一つインドのサンスクリットと突き合わせて解釈するのではなく,老荘の哲学や儒
教の哲学の用語を多く用いて訳した漢訳仏典に基づいて教理の解釈研究がなされて行き
ますから,インドの仏教教理とはどうしても違ってくるようになります。
 第三に,インドにおいて成立した本来の仏教は,釈尊の時代から西暦紀元前後の頃ま
で数百年の間にインドの中においても,例えば小乗仏教と大乗仏教のように,教理が既
に変わって来ています。このように時間的に変化してきているインドの仏教教理が西暦
紀元前後に,平面化された形で一挙に中国に入って来ます。そして仏教の教典(サンス
クリットではそれをスートラと云います)を,中国の伝統的な聖人の教えを記録した「
経キョウ」と同一視して,同じように「経」と呼ぶようになりました。
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