06d 修験道と神道1
 
(3) 道賢の金峰山他界遍歴譚
 北野天神縁起は,多治比のあや子や比良宮の神良種の童男の託宣に先立つ承平四年(
934)に,道賢が金峰山の他界に赴いて道真公の霊に会い,更に六道を遍歴する話を載せ
ています。この話は『扶桑略記』第二十五に「道賢上人冥途記」として採り上げられて
います。また内山永久寺にはこの広本とも思える『日蔵夢記』が伝わっていました。更
に摂津国太山寺旧蔵(現ニューヨーク・メトロポリタン美術館所蔵)の『天神縁起絵巻』のように,こ
の『冥途記』を基に構成した一巻を含む独自の絵巻も存在します。ただこれらについて
は,後に必要に応じて紹介することにして,まず『天満記』(承久本)によって道賢の
他界遍歴の話を紹介しておきましょう。
 道賢は金剛蔵王菩薩の教えによって日蔵と名を変えた人です。承平四年(934)四月十
六日から金峰山の笙の岩屋に篭もって修行していましたが,八月一日午の刻(正午頃)
に頓滅し,金剛蔵王の導きで兜率天の内・外院,天満大自在天神の居所,閻魔王界など
を見て,十三日経って蘇生しました。即ち,まず彼は金剛力士,雷神,鬼王,夜叉,羅
刹のような異形の従者を連れた太政威徳天(天満大自在天神・道真公の御霊)に導かれ
て,その住所に行きました。其処は周囲も定かでないような広大な池中の大きな島でし
た。島には方八肘(一丈六尺)の壇があり,壇中に蓮花,その上に宝塔があって,その
中に妙法蓮華経の軸が掛けられていました。更に両部の曼荼羅を掛けた天台の堂宇,大
きな城などもありました。威徳天は「自分は生前の恨みに晴らすために日本を滅ぼし,
八十四年後に国土を改めて造りたいと思いました。けれども日本においては普賢や竜樹
が仏教を広めており,その顕密の聖教の力や仏菩薩の垂迹である明神の宥ナダめによっ
て,自分の怨みも十分の一に減りました。ただ,自分の眷属の十六万八千の水・火・雷
電・風伯・雨師・毒竜・悪鬼・邪神などが災害をもたらしています」と語りました。日
蔵が「日本国中の人は,あなたを火来天神と崇めている故,怨念を持たなくててもよい
のではないでしょうか」と云いますと,威徳天は「仏に成らない限りは恨みを忘れるそ
とは出来ません。私を信じ,形像を造り,名号を唱えれば感応を垂れましょう」と云い
ました。日蔵が金剛蔵王にこのことを話しますと,蔵王は汝に世間の災難の根源を知ら
せるために威徳天の下に遣わしたと云いました。
 この後日蔵は更に金剛蔵王の神通力によって閻魔王界に行き,王の使いの導きで地獄
を巡りましたが,その一つの鉄窟苦所において醍醐天皇と三人の家臣が赤い灰の上に蹲
ウズクマっているのを見ました。天皇は日蔵に「私は父の宇多法皇に嶮路を歩ませたこと,
自分が高殿に座して父を下地に据えたこと,罪のない賢臣を罰したこと,国位を貪ムサボ
って仏法を滅ぼしたこと,自分の怨敵のために他の衆を害したことの五つの罪と,威徳
天の怨念ゆえ,此処に落ちています」と告げ,自分の苦を救うために善根を施して欲し
いと話しました。更に日蔵は金剛蔵王から,延喜十四年(914)の京都の大火,同十七年
の東大寺・同二十一年の崇福寺・延長三年(925)の法隆寺・承平五年(975)の延暦寺
中堂などの火事,藤原純友・平将門の乱,奥州の阿部貞任・宗任の反乱,源平の争い,
長承(1132〜35)・養和(1181〜82)の飢饉,文治元年(1185)の大地震,同五年の大
風,建久(1190〜99)の洪水などの災難は,全て自分の眷属の働きによるものですと説
明された後に蘇生したのです。
 これに比して『道賢上人冥途記』においてこの話をより体系的に述べ,『日蔵夢記』
には『冥途記』の話がより具体的に記されています。そこで次に『冥途記』の話の筋を
紹介し,前記の話に述べられていないもののみを補足しておきましょう。『冥途記』に
拠りますと,道賢は延喜十六年(916)二月,十二歳のときに金峰山に入り,発心門椿山
寺において剃髪し,塩穀を断って六年間篭山修行をしました。けれども都に居た母が病
気と聞いて山を出ましたが,その後も二十六年間に亘って金峰山に入山修行しました。
ただ年来,災難が頻発し,天文陰陽師が不吉を告げるので,霊験を得るために再び金峰
山に篭もり,三七日(21日)に亘って無言断食の行をして,一心に念仏しました。する
と天慶四年(941)八月二日午の刻に枯熱が生じ,喉が渇き,気息が絶えました。
 そのとき一人の禅僧が現れ,金瓶から水を出して飲ませ,執金剛神と名乗りました。
彼には二十八部衆が付いて来ていました。しばらくしますと西の巌上から一宿徳和上が
下りて来て,経を入れた笈を背負った姿の彼を山上に導きました。其処は黄金に輝く金
山で七宝の高座がありました。和上はその座に座って,此処は金峰山浄土で自分は牟尼
の化身の蔵王菩薩であると名乗りました。そして道賢にお前は短命であると云って,「
日蔵九九,年月王護」と書いた短札を与え,日蔵と名前を改めて,護法菩薩を師として
浄戒を受けるよう勧めました。そのとき五色の光明が輝き,西山の虚空から太政威徳天
が異形の多くの眷属を連れて現れました。そして蔵王菩薩の許しの下に日蔵を自己の居
所の大威徳城に導きました。
 その居所の状景は北野天神縁起とほぼ同様ですが,ここでは宝塔中に法華経が安置さ
れ,その左右に両部曼荼羅が掛けられていること,太政威徳天が自分は菅相府(道真公
)で,須弥山上の三十三天(その中心は帝釈天)から,太政威徳天との名を授かった,
自分の第三の使者の火雷大気毒王が災厄をもたらしていると話したこと,日蔵が蔵王菩
薩から授かった札の「日蔵九九,年月王護」の日は大日,蔵は胎蔵,九九は八十一,年
は八十一年,月は八十一ケ月,王は蔵王,護は守護で,大日如来に帰依し胎蔵界の大法
を修行すれば八十一歳まで生きられることを指すと説明したことが加わっています。
 ここで道賢は今一度金峰山の蔵王菩薩の処に帰り,菩薩から世間の災因を知らせるた
めに威徳天の処に遣わしたこと,太政威徳天は菅公であること,延長八年(930)夏に藤
原清貫や希世を殺した落雷,醍醐天皇の六臓爛壊による死,崇福寺・法隆寺・東大寺・
延暦寺・壇林寺などの火災,疫病,謀反,逆乱は全て火雷大気毒王の所作であると教え
られた上で,再び笙の岩屋に戻り,天慶四年(941)年八月十三日寅の刻(午前四時頃)
に蘇生しました。これは気息を断ってから十三日に当たるとしています。なお本書には
追注記の形で,道賢が蔵王菩薩の導きによって地獄に行き,醍醐天皇と三人の家臣に会
う話を挙げています。ただ本書においては醍醐天皇が自分の苦しみを天皇に奏上して救
済されるよう願い,更に摂政忠平に自分の抜苦のために一万の卒塔婆を建立するよう求
めています。
 
 以上主として「北野天神縁起」を基に,菅原道真公が北野天神として祀られる宗教社
会的背景とその経緯について紹介しました。そこで,最後にそれに修験者がどのように
関わっていたを考察することにしましょう。藤原時平との政争に破れ,太宰府に左遷さ
れた道真公は,延喜三年(903)に死亡します。その後旱魃が続き疫病が流行し,落雷や
当の藤原時平の死などが続きました。巷ではこれを道真公の怨霊のせいであるとしまし
た。延喜五年(905)には太宰府の味酒安行に神託があり,葬地の安楽寺に祠廟を建て,
道真公の霊を天満自在天神と名付けて奉祀しました。北野天神縁起に拠りますと,その
後も関係者の死亡,落雷,疫病の蔓延,平将門や藤原純友の反乱が続き,これらは全て
道真公の怨霊によると怖れられました。
 こうした状況において,金峰山の笙の岩屋において修行中の修験者道賢が,金剛蔵王
の導きで他界に赴き,地獄において苦しむ醍醐天皇,藤原時平などの有様を見,更に道
真公の御霊である太政威徳天(天満大自在天神)から,自分が災因となっていることを
知らされるのです。そして,これを裏付けるかのように天慶五年(942)には,道真公の
霊が雷神に奉仕する家である多治比のあや子に憑き,その怨念を語り,北野の右近の馬
場に祠を造ることを求めています。ただあや子は自宅に小祠を造って祀っていましたが,
再び託宣がありましたので,北野に小祠を造っています。その後天暦元年(947)に,修
験者の修行道場である比良山の比良宮の禰宜の神良種の男子太郎丸に託宣があり,自分
の怨念が災因となっていることを述べました。更に右近の馬場に一夜に数千本の松を生
やす奇瑞を示しました。そこで良種はあや子の伴類の満増や同地にあった朝日寺の住職
最鎮と共に,この地に北野社を創建したのです。
 こう観てきますと,御霊神である北野天神の創建は,他界遍歴をして他界において直
接に道真公の霊に会い,地獄を見た修験者道賢の体験談と,比良山の修験的性格を持つ
神官の子に憑依した道真公の霊の依頼が基になっています。このように北野天神の創建
には,怨霊の鎮撫の修法を行うことも多かった修験者が深く関わっていたことが推測さ
れるのです。

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