0601 修験道と神道2
修験道と神道
参考:春秋社発行「修験道と日本宗教」
〈祇園社と修験道〉
(1) 祇園社ギオンシャと牛頭天王コズテンノウ
京都東山の祇園社(八坂神社)は,南都の僧円如が貞観十八年(876)六月十四日に,
京都八坂に在った役神社の側ソバに藤原基経の助力を得て,薬師・千手観音などの像を祀
った堂宇を建立したのに始まります。やがてこの堂宇は祇園寺(観慶寺・感神院とも)
と呼ばれました(『祇園社社家条々記録』「太政官府 山城国の解」)。その後,延長四
年(926)には,修行僧が祇園天神堂において供養しています(『日本紀略』)。おそら
くこの頃から,祇園社が御霊信仰と結び付いて行ったと考えられましょう。
容易に気付かれますように,この祇園寺の寺号は,須達長者が釈迦のために造った祇
園精舎に因んでいます。そして,この精舎の守護神が牛頭天王であったことから,この
祇園寺の天神は牛頭天王と呼ばれるようになって行きました。因みに牛頭天王はインド
の牛頭山(摩羅耶山・高山・摩梨山)の神です。この山は山中に栴檀センダンの樹が多く,
山容が牛の頭に似ているので,牛頭栴檀と名付けられたと云います。そして,栴檀から
熱病・風腫などに効く薬が採れることから,この山神が疫神とされ,牛頭天王と呼ばれ
て民間において広く信じられていました。その結果,祇園精舎の守護神とされたと推測
されるのです。この牛頭山の信仰はその後唐(中国)を経て朝鮮にも入り,朝鮮語で牛
頭をソシマリと呼びました。なお『日本書紀』の一書においては,素戔鳴尊の天下りし
た処を新羅の曽尸茂梨としています。こうしたことから牛頭天王と素戔鳴尊が結び付い
て行ったことも考えられましょう。
ところで,インドにおいては牛が聖獣とされ,牛の肝から得る薬を牛黄(牛王)と名
付けて尊重しました。そして,牛黄を用いて牛王加持をしたり,神の使いなどを図像化
した符に牛黄の印肉を押した御符を牛王宝印として珍重しました。牛王宝印は特に熊野
三山のものが有名ですが,各地の社寺においても出されています。ただ祇園社のものは
特に「牛玉宝印」と称し「玉」の字を用いています。なお『泰山集』などにおいては,
牛王は牛頭天王の中の二字を略したものとしています。このほか,わが国においては延
暦(782〜806)の頃,農民が牛を殺して漢神を祀っており,この儀礼が雨乞いや怨霊鎮
めにも用いられていました。こうしたことも疫病鎮めの神として牛頭天王を祀ることに
影響を及ぼしたと考えられるのです。
牛頭天王の神格に関しては,延長(923〜930)の頃に成る『備後国風土記逸文』所収
の「疫隈エノクマ国社」に次の話が挙げられています。昔,北海にいた武塔神が南海の神の
娘によばいに行ったとき,途中で日が暮れました。そこでその近くの蘇民将来と巨旦将
来の兄弟の家に宿を求めました。その折,弟の巨旦は富裕でしたが断り,貧しい兄の蘇
民が歓待しました。よばいの目的を遂げ八人の子を儲けた武塔神は帰るときに,蘇民に
巨旦の家に嫁いでいた娘の腰に目じるしの茅の輪を付けさせ,彼女以外の巨旦の家の者
を皆殺しにしてしまいました。そして,自分は速須佐能雄の神である,後世疫病が流行
ったとき,腰に茅の輪チノワを付けたならば,その者は蘇民将来の子孫と思って救済しよう
と言ったと云う話です。現在,祇園社を始め諸社の社前に祭などの際に茅の輪を作って
これを潜らせるのは,この伝承に基づいています。
なおこの話には牛頭天王の名は出てきませんが,鎌倉時代初期に増補された『伊呂波
宇類抄』には,武塔神の本名を牛頭天王,その父を東王父天,母を西王母天,その妻の
南海神を沙竭羅竜王,子を八王子とし,八万四千六百五十四の従神を擁するとしていま
す。この東王父天と西王母天は道教の神格,沙竭羅竜王は千手観音の眷属です。祇園社
には当初円如が堂宇を設けたとき,薬師と千手観音を祀っており,こうしたことから疫
神の牛頭天王・武塔神と薬師,千手観音と沙竭羅竜王が習合しやすかったとも考えられ
ましょう。事実,牛頭天王の本地は薬師とされているのです。
この祇園や牛頭天王の信仰は,吉野の金峰山にも将来され,『諸山縁起』所収の「大
峯の宿名,百廿所」の中には,吉野近くの宿に智有の宿(寺祇園),老仙の宿(今祇園
)の名が挙げられています。この智有,老仙は祇園社に縁のあった修験と考えられます。
因みに寛弘四年(1007)御岳詣をした藤原道長は寺祇園,寛治四年(1090)藤原師道は
今祇園に泊まっています。なお時代は下りますが,室町期の吉野曼荼羅(如意輪寺蔵,
金峯山寺蔵,西大寺蔵,ボストン博物館蔵)には,金剛蔵王権現,役行者(前鬼・後鬼
)と金精・子守・勝手の吉野三神と共に何れも,牛頭天王と天満天神が描かれています
(如意輪寺本と西大寺本は八王子神も描く)。なお,その画像は牛頭天王は牛頭を戴く
三面二臂の忿怒形,その子とされる八王子神は矢を背負った随臣形,天満天神は黒袍で
正笏の束帯姿です。因みに時代は下りますが近世末の当山派修験の学匠行智の『木の葉
ころ裳』には,山伏のことを「そみかくだ」と言うのは『和訓栞』において蘇民書札を
「そみかくだ」と読ますのに因むとしています。また,尊海の『修験常用秘法集』には
「牛頭天王六印法」が挙げられています。
(2) 牛頭天王の本縁譚
牛頭天王は室町末期頃に成る『二十二社註式』においては,播磨の明石浦に垂迹し,
次いで播磨の広峰に移り,その後北白河の東光寺を経て,元慶年中(877〜885)に八坂
の感神院(祇園社)に遷ったとしています。そして,祇園社の祭神として西間に本御前,
奇稲田媛クシナダヒメ垂迹,一名婆利采女ハリサイジョ・一名少将井・脚摩乳手摩乳女,中間に牛
頭天王号太政所,進雄尊垂迹,東間に蛇毒気神,沙竭羅竜王女,今御前を挙げています。
牛頭天王の本縁譚には,鎌倉時代末から南北朝期に成ったとされます両部神道的陰陽
道の百科全書である『ほき内伝』所収の「牛頭天王縁起」,『神道集』所収の「祇園大
明神事」,室町期以降『ほき内伝』所収の縁起を基に創られた『牛頭天王縁起』などの
諸本がありますが,此処では修験者の間にも影響を及ぼした『ほき内伝』所収の「牛頭
天王縁起」を紹介しましょう。
注記:『ほき内伝』の「ほ」は「竹+甫+皿」,「き」は竹+艮+皿」と云う字です。
「牛頭天王縁起」に拠りますと,中天竺の吉祥天の源の王舎城の商貴(鐘馗か)大王は,
かつて帝釈天に仕えて善現天に居て諸星を探題し,天刑テンギョウ星と号したが,娑婆の世
界に下って牛頭天王と称していました。天王の国は豊かでしたが,王には后がありませ
んでした。そこに天帝の使いの瑠璃鳥が飛来して,王に竜宮城の沙竭羅竜王の第三女頗
梨采女を嫁に請い受けよと告げました。そこで牛頭天王は,頗梨采女の処に向かいます
が,その途中において日が暮れ,南天竺の夜叉国の巨旦に宿を頼みます。しかし,断ら
れて困っていますと,その奴婢ヌヒが巨旦の弟蘇民将来のことを教えます。蘇民は牛頭天
王を泊めて持成モテなし,隼鷂ハヤタカと云う宝船で竜宮城に送りました。牛頭天王は頗梨采
女と結婚し,八人の子を儲け,本国に帰る途中,巨旦を攻めようとしました。これを聞
いた巨旦は,博士の卜に従って,千人の僧に太山府君の法を行わせましたが,一人の僧
が居眠りをしたため,その隙スキに天王と眷属が攻め入って巨旦の一族を滅ぼしました。
ただその折,天王は以前助けてくれた奴婢だけは助けようと思い,桃の木の札に「急(
口偏+急)急如律令」と書いて弾指しますと,札がその奴婢の袂タモトに入り,その女は難
を免れました。そして,天王は蘇民将来に巨旦の支配していました夜叉国を与え,その
子孫であると申し出れば疫病の難から守ることを約しました,と云います。
この本縁譚には,先の『備後国風土記逸文』所掲の「疫隅国社」の本縁譚に観られ,
『神道集』の「祇園大明神之事」にも在りました巨旦に嫁いでいた蘇民将来の娘の茅の
輪を付けさせて救うと云う話はありません。その代わりに,修験者が符に好んで書く「
急(口偏+急)急如律令」の呪文が挙げられていました。なお,この『ほき内伝』の系
統を引く『牛頭天王縁起』の諸本においては,天王は蘇民の家を去るときに御札に諸願
を成就させる牛玉を与え,蘇民はこれにより家屋敷や財産を得たとします。また,更に
天王は巨旦を滅ぼした後,今後も牛玉によって蘇民を擁護すると言いました。そこで祇
園社などの寺社においては牛王宝印を作って人々に与えているとしています。
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