0601a 修験道と神道2
なお『神道集』の「祇園大明神事」においては,牛頭天王が南海国沙竭羅竜王の第二
の娘の陰大女又は波利采女の間に儲けた八人の王子は,天王に随従してその行化を助け,
太歳八神として苦楽の吉凶を決するとして,義浄三蔵訳の『秘密心点如意蔵王呪経』に
基づいて,次の八王子の本地などを挙げています。
第一王子 星接 太歳神 相光天王 本地普賢菩薩
第二王子 奄(口偏+奄)恋 大将軍 魔王天王 本地文殊師利菩薩
第三王子 勝宝宿 歳刑神 徳達神天王 本地観世音菩薩
第四王子 半集 歳破神 達尼漢天王 本地勢至菩薩
第五王子 解脱 歳殺神 良侍天王 本地日光菩薩
第六王子 強勝 黄幡神 侍神相天王 本地月光菩薩
第七王子 源宿 豹尾神 宅相神天王 本地地持(地蔵か)菩薩
第八王子 結毘(田偏+比) 太陰神 倶摩良天王 本地竜樹菩薩
これを観ますと,釈迦の脇士の普賢・文殊,阿弥陀の脇士の観音・勢至,薬師の脇士
の日光・月光と地蔵・竜樹が本地とされています。
戦国時代以降になりますと,牛頭天王の勧請祭文が作られるようになりました。その
一つの宮地直一蔵の天文十九年(1550)写の『潅頂(勧請か)祭文』においては,牛頭
天王(武塔天神と同一神),波利采女,八王子を勧請し,『伊呂波字類抄』所掲のもの
に近い内容の表白文を挙げ,物怪除・五穀成就・疫難消除・旱魃の消除などを祈願し,
最後に九条錫杖・慈救二十一遍・吉祥天呪二十一遍・八王子呪二十一遍・尊勝陀羅尼三
遍・荒神呪二十一遍,心経三卷を挙げています。この修法は九条錫杖などが観られるこ
とからしますと,修験者によって用いられたと考えられましょう。また,ここで荒神の
呪が挙げられていることは,荒神と牛頭天王の親近性を物語っているようで興味をそそ
られます。
なお醍醐寺には文明十七年(1485)書写の『牛頭天王祭文』があります。これは最初
に年月日を挙げ,次に蘇民将来の子孫であるこの土地(土地名は適宜に入れたと考えら
れる)の住民が幣帛や香花灯明を供えて,牛頭天王,武塔天神,波利采女,八王子を迎
えると述べる,そして散米,供酒し,牛頭天王の伝承を述べます。その上で牛頭天王の
子孫や八王子の名を唱えるものに,長寿,出世,豊穣,物怪鎮めなどの利益が与えられ
ることを祈念すると云うものです。
(3) 祇園祭の山鉾と修験
周知のように現在の八坂神社の祇園祭においては,山鉾の巡行が最大の行事となって
います。これは室町時代まで遡り得る行事です。そして『祇園社記』十五の「祇園会山
ぼこの事」の条に拠りますと,応仁の乱(同元年=1467に始まる)以前には各町毎に定
まった山鉾が三十〜四十基出ています。この中には,山ふしほく(四条坊門むろ町),
ふたらく山(錦小路町と四条坊門間),えんの行者山(姉小路室町と三条間)など修験
に関係したものがあります。そして乱後の明応(1492〜1501)頃に復興したときには,
鉾が七,山が九に減少したが,その中に山伏山(四条坊門とアヤの小路の間),くわん
おんふだらく(六角町と四条坊門の間)が含まれています。
因みに現在は九基の山鉾が出ますがこの中に山伏山,役行者山があります。山伏山は
八坂の塔が傾いたのを祈祷して元に戻した浄蔵の大峰入峰姿を表す人形が飾られていま
す。そして祇園会に際してはこの人形を会所の二階の表の門に飾り,供物を供え,聖護
院の行者に祈祷して貰っています。なお会所の奥の間には牛頭天王の神号が掛けられて
いますが,これは八坂神社の神官が来て清祓しています。役行者山は役行者に一言主神
と葛城神を配したもので,厄除けの利益があるとされて,そのお守りが出されています。
七月十四日には聖護院の山伏が来て「みたまいれ」をしています。そして翌十五日には,
聖護院の山伏は六角堂に参集し,山伏・霰天神・南観音・北観音の各山に参ってから役
行者山に来て,護摩を焚いて経を上げています。
このように現在の祇園祭りにおいても,修験にまつわる山鉾においては本山派の修験
が重要な役割を果たしているのです。
〈結〉本稿においては最初に修験道と神道について概説的な説明をした上で,古来の神
社であります伊勢神宮・大神神社,御霊神を祀る北野天神,行疫神を祀る祇園社を採り
上げて,其処に観られます修験道との関わりを検討しました。そこで今一度序に立ち帰
って,これらのものを全体的な修験道と神社の関わりの歴史の中に位置付けて置くこと
にしましょう。
古代における修験道と神道の関わりは,神仏習合の流れの中に位置付けることができ
ます。その第一は,古来の氏族の氏神に神宮寺が設けられ,其処に修験が関与するもの
です。天皇家の祖神天照大神を祀る伊勢神宮に関わる世義寺・朝熊山の金剛証寺,三輪
氏の祖神を祀る大神神社に関わる平等寺,物部氏の氏神石上神宮の別当寺内山永久寺な
どがこれです。なおこのうち伊勢の世義寺,三輪山平等寺,内山永久寺は当山三十六正
大先達として,近世まで大きな勢力を有していました。また伊勢の世義寺,三輪山平等
寺は現在も修験寺院として存続しています。神仏習合の第二の在り方は,高野山の鎮守
天野の丹生郡比売神社に依拠した長床衆のように寺院の鎮守に奉仕した修験です。ただ,
一山組織においては比叡山の無動寺の回峰行者,根来寺の修験のように,修験は仏寺に
属することが多かったようです。そうしてこの形の修験は明治政府の神仏分離政策によ
って,回峰行を除いてほとんどが消滅しました。第三は吉野,熊野,羽黒,英彦山など
の修験一山です。これらは吉野は金剛蔵王権現,熊野は熊野十二所権現,羽黒は羽黒権
現,英彦山は英彦山権現と云うように,典型的な神仏習合の権現を主神としています。
ただ明治時代以降は吉野一山を除いて,そのほとんどが神社化しました。しかしながら
羽黒の出羽三山神社などにおいては,峰入など修験的な行事をしています。また羽黒や
英彦山においては神社が大きな勢力を持っていますが,修験寺院も活動しています。
神仏習合の次の展開は平安時代に芽生えた御霊会や行疫神の祭祀で,ここにも修験が
関わっています。即ち本稿において採り上げました御霊神を代表する北野天神の創建に
おいては,その当初から修験が関与していました。御霊の統御,憑依,脱魂による他界
遍歴と云うようにシャーマン的能力を持つ修験が創建に深く関わっていたのです。ただ
北野天神においては,その後の展開にはあまり修験の影響は認められません。これに対
して祇園社の場合は創建には修験はさして関わりを持ちませんでしたが,祇園会の山鉾
巡行などにおいては現在も修験が関わっています。また修験者の間に広く流布した『ほ
き内伝』の巻頭に「牛頭天王縁起」が納められていることから分かりますように,牛頭
天王信仰の伝播には修験が深く関わっていました。吉野一山に観られますように,修験
一山には天神や祇園が祀られていることも少なくないのです。
近世期になり修験が里修験化しますと,修験と神道の関係に新しい展開が認められま
す。その第一は,修験者が自己が止宿する地域の氏神の別当となり,祭祀に与るように
なったことです。こうした氏神には熊野・白山・金峰など修験霊山の祭神,天神などの
御霊神もありますが,八幡・稲荷など一般的なものも少なくありません。尤も明治の神
仏分離の結果,これらの修験の多くは神官になって行きました。第二は,中世期の熊野
先達に観られるように,修験者が各地の霊山登拝の先達を勤めるものです。これは特に
権現を祀る修験霊山において顕著に認められ,先達を中心とした霊山登拝の講が数多く
作られました。特に富士と木曽御岳は民衆登拝の山として栄え,数多くの講が輩出しま
した。これらの講は明治時代以降は,御岳講は御岳教,富士講は扶桑教・実行教などと
云うように教派神道になって行きました。
ところで古来の神祭りにおいては,神功皇后と武内宿禰に観られますように,憑依し
て神託を下す巫女と,それを聞き出す審神者サニワが組になっていました。そして平安時代
には巫女と験者,中世は修験と稚児,近世は山伏と巫女がそれぞれ組になって憑依祷を
することが多かった。この名残は現在においても福島県の葉山祭りや島根の大元神楽,
御岳講の御座などの内に認められるのです。
このように修験道と神道の関わりには実に多様なものが認められますが,本稿におい
てはそのうちの神社神道を代表する伊勢神宮と大神神社の神宮寺と関わる修験,修験者
が創建に関わった北野天神,修験者がその神事や伝播に関わったと考えられる祇園社を
採り上げて,その具体的な在り方を紹介しました。
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