11 法華神道
参考:堀書店発行「神道辞典」
〈法華神道ホッケシンタウ〉
法華神道とは、日蓮宗の神道、つまり日蓮宗の人々の信じている神道、又はその神道
説である。即ち法華の教理によって我が国の神道を解釈するを云う。
さて、法華神道で中心になるのは、法華三十番神説である。所謂、法華神道三大書と
称せられる「番神問答記」「法華神道秘訣」「神道同一咸(酉扁+咸)味鈔」を始め、
「鎮守勧請覚悟要」「神仏冥応論」「法華三十番神抄」等の法華神道書を繙ヒモトいて見て
も、多くは三十番神の解説が中心である。
ところで法華三十番神とは、我が国の著名な神々が、一ケ月三十日の間、毎日番代で
「法華経」を守護せられると云う信仰である。その思想は既に天台宗にある。よって、
番神信仰が何時、どのようにして日蓮宗に受容せられたかを窮めることが、実は法華神
道の起源を明白ならしめることにもなる。その受容は、
(一)日蓮(貞応元年〜弘安五年・1222〜1282)に始まる説と、
(二)日像(文永六年〜興国三年・1269〜1342)に始まるとの二説がある。
更に(一)に二説ある。即ち(イ)建長元年(四年とも)、日蓮が比叡山の定光院で
読経していたとき、法華守護の三十番神が列をなして姿を現した。(ロ)日蓮が吉田兼
益より神道を伝授され、三十番神の守護を法華経によって勧請した、の二説である。し
かし何れも信憑しがたい。
(二)の日像勧請説を証する資料は多い。
よって、現在では日蓮のときは、天照・八幡の二神のみの勧請で、三十番神勧請の濫觴
ランショウは(二)の日像によるとの説が一般に認められている。
しかし、日蓮は具体的に三十番神は勧請しなかったにせよ、『立正安国論』に「世み
な正に背き人ことごとく悪に帰す。故に善神は国を捨てて相去り、聖人所を辞して還ら
ず」と、あるように神天上思想(捨国と擁護がある)、善神捨国思想は明白に表れてい
る。然して、この思想が更に日像によって三十番神信仰へと受け継がれ、展開されて行
ったとみるのが正しい。要するに法華神道は、日蓮の国神観を基にして展開して行った
神道説と云えよう。何れにせよ、室町時代に入るとその中心思想である三十番神として
法華神道は全盛を極めた。
ところが明応六年二月六日(九日とも)吉田兼倶はこの三十番神について、
(一)天台宗の三十番神か、(二)内侍所勧請のものか、と云う質疑状を発した(番神
問答事件)。これに対し日蓮宗では、「此事当流独歩の稟承、他人不共の秘曲なり」と、
天台宗勧請の三十番神を継ぐものでないとし、「練磨・実義」の二語で以って独特の解釈
を加え、名実共に三十番神は日蓮宗独自のものになって行った。このような解釈が生じ
たのも吉田神道の影響があったからで、日蓮宗が天台宗より独立したのも、吉田神道と
の交渉を抜きにしては考えることは出来ない。
〈三十番神〉
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