06c 修験道と神道1
 
(2) 道真公の霊の憑依
 「北野天神縁起」の建久本に拠りますと,天慶五年(942)七月十二日の西京の七条二
坊に住した多治比の女あや子(文子・宜禰とも)に道真公の霊が憑依しました。その言
葉は「私は生前,都においてもとりわけ閑勝の地である右近の馬場を好んで屡々遊んで
いた。けれども無実の罪によって,鎮西に遷された。これを自分の宿業と思ってみたも
のの,心の中には恨みを持ち,いらいらして報復したいと思うこともある。ただ何時か
分からないが都に帰り,密かに右近の馬場へ行けば,胸の憤りも鎮まると思う。それ故
其処に祠を造って立寄る処を設けて欲しい」と云うものでした。尤も,あや子は自分が
賎しいことを憚ハバカって,右近の馬場には祠を造らないで,自宅の近くに玉垣を作って,
五年間に亘って奉仕しました。けれども神慮に叶わず,再び託宣がありましたので,天
暦元年(947)六月九日に北野に祠を設けて祀ったと云います。
 なお天徳四年(960)六月十日に多治比のあや子(宜禰)自身の手に成るとされる『北
野天満自在天神宮創建山城国葛野上林郷縁起』(『北野縁起』と略す)には,前記の記
述に加えて,同地に松の種を植えたらそれが忽ち林となったことや,社殿の造営のこと
も挙げています。また社殿は天徳四年まで十四年間の間に五度改築されましたが,当時
のものは三間四面の桧皮葺の祠で道真公の御影像を祀り,法楽増長のために法華経十部,
金光明経一部,仁王般若経二部を納め,四本の卒塔婆が立てられていました。更に三間
四面の御堂が造られ,観音像が一躯安置されていたとしています。そして最後にこの神
社の奉仕は,あや子の子孫が代々当たるべきものであることが記されています。
 この道真公の霊が憑依したあや子が属した多治比氏は,雷神に奉仕する氏族であり,
雷神の正体は竜(蛇)であったことから蝮氏と呼ばれていたと云います。なお,あや子
は宜禰と称していますが,宜禰は巫女を意味しています。因みに,『根本縁起』には修
験者の浄蔵が時平の病気平癒を祈祷していますと,時平の両耳から青竜が頭を出し,自
分は帝釈天に訴えて怨敵に報じようとしているのだと告げて,祈祷を止めるよう求める
絵が描かれています。云うまでもなく,この青竜は道真公の霊です。それ故あや子の憑
依譚は道真公の霊が雷神(竜・蛇)を祀る蝮氏の女に憑依したことを示すと考えられる
のです。なお殆どの北野天神縁起絵巻には,あや子は童女として描かれています。因み
に醍醐天皇の践大嘗祭に多治比氏出自の内舎人が田楽を奉仕しており,あや子の子孫は
上月氏と称し,代々女系の当主はあや子と名乗って,北野神社の巫女を勤めていました。
 なお前節において触れましたように北野の地は,古来天神を祀って怨霊を鎮める処と
されていました。また右京の馬場は右近衛府所属の馬場で,毎月五日右近衛官人が走馬
の競技をしていました。この地は現在の北野天満宮境内の東側の地に比定されています。
当時右京は左京に比べて寂れた処で,住宅も疎らであったとされています。こうした処
において,古来雷神(竜神)を祀る家筋の童女に憑いた道真公の霊は,生前の想い出,
悲しみ,現在の気持を訴え,祀られる事を求めています。これは『栄花物語』巻二十一
「後くゐの大将」の卷に挙げる万寿元年(1024)正月に祟りを受けて死亡した藤原教通
の妻の霊が,右近のめのとの口寄に応じて同女に憑いて語ったものと類似しています。
 道真公の霊は更に天慶九年(946)には,近江国比良宮の禰宜神良種の七歳の童男に憑
いて託宣を下しています。この託宣は,"私は老松,富部と云う二人の従者と仏舎利,玉
の帯,銀の太刀,笏シャクと鏡などの調度を持って上京した。その際老松には笏,富部には
仏舎利を持たせた。昔私の身体に松が生え,それが枯れる夢を見たが,これは考えてみ
ると流罪にされることを示すものでした。松は私の姿を示すものです。私が懐く瞋恚シンイ
の念は炎となって天に満ち,私の従類の雷神,鬼類は世界の災難を引き起こしています。
帝釈天も私にこのことを任せているのです。そこで私は不信の者を疫病にしたり,雷神
に踏み殺させています。
 私は鎮西に居たとき,死後は,この世において私のように思いもかけない災難を受け,
困り苦しんでいる者を救う身に成りたいと思い,そうなりました。尤も私の社の付近に
おいて鹿や鳥を殺したら災いを起こすでしょう。人々は加茂神社や八幡社のみを崇める
が,私を崇める人に対しては守護を与えるでしょう。右近の馬場は私の興宴の地ゆえ,
其処に移りますので松を植えるように。私は政務にあったとき,仏への灯明を留める罪
を犯しています。そこで社には法華三昧堂を設けるように,また私の「家を離れて三・
四月,落涙百千行,万事は皆夢の如し,時々彼蒼を仰ぐ」と「雁足黏将して帛を繋げた
るかを疑い,鳥の頭にさし着きて家に帰らんことを憶う」の二篇の詩を詠んでくれると
有難い"と云うものでした。
 この託宣に驚いた父の良種は,上京して右近の馬場にあった天台宗の朝日寺の住職最
鎮,法儀,鎮世等に相談しました。そのとき一夜のうちに数千本の松が生えて林に成っ
たと云います。この奇瑞に感動した最鎮と狩弘宗は先に挙げた多治比のあや子の伴類の
寺主満増と,その異父兄星川秋水と力を合わせて元暦元年(947)に神社を建立しまし
た。その後十四年間に五度御殿を造り改めた上で,天徳三年(959)には藤原師輔の手に
よって社殿が増築され,宝物が整えられました。なおこの話は貞元二年(977)に,北野
寺の僧最鎮が記した『最鎮記文』にも載せられています。尤も本書にはこの勧請の経緯,
師輔による増築の話に加えて,弘宗,満増の死後に増日なるものが現れ,星川秋水から
寺印を受けて寺司を称して最鎮と争いました。そこで朝廷においては北野社を太宰府の
道真公の廟所の安楽寺と同様に菅原氏の領知に任せ,最鎮を住職としたことを記してい
ます。本書はこうした状況にあって,最鎮が北野社の祭祀権を主張するために記したも
のです。因みに先に観た天徳四年の『北野縁起』は,これに対してあや子が北野社の支
配権を主張するために創ったものと考えられます。
 ところで道真公の霊が憑依した童男の父の神良種が奉仕する比良宮は,比叡山の北に
連なる比良山の山神を祀る神社です。延喜式には志呂志神社ともあり,白鬚神社とも呼
ばれています。比良山は山岳修行の道場として知られ,貞観五年(863)に神泉苑におい
て初めて御霊会がなされたとき,講師を勤めた慧達は此処において修行しています。ま
た『根本縁起』(承久本)の詞書の筆を執ったと推定される藤原道家が延応元年(1239
)に病気になった際に修験者の慶政が祈祷したところ,比良山古人と自称する天狗が現
れ,病因が崇徳院,仁慶,承円,法円等の祟りによると語ったとの話も認められます。
朝日寺の最鎮も比良山の修験者で観音経の持経者として知られ,観音の呪を唱えて治病
などの活動をしたとされています。
 なおこの託宣においては,まず天満天神が眷属とも云える老松,富部を擁し,従類の
雷神,鬼類を使役して帝釈天の了解の下に不信者を罰し,篤信者を守護することが述べ
られています。また松が御神体とも云えるものとされ,神域において鹿や鳥を殺すこと
を禁じ,法華三昧堂において供養し,併せて道真公の望郷の想いと,囚われの身となっ
た蘇武が天子に救出された故事を歌った詩を詠じることを求めています。このようにこ
の託宣は,先のあや子のそれのように死霊が生前や現在の想いを語るのでなく,神格化
した天満天神が自己の属性,本願を述べると云う内容のものなのです。
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