06b 修験道と神道1
 
〈北野天神の創建と修験道〉
 神社には前項において採り上げた伊勢や三輪のように氏神に類するものの他に,疫病
や天変地異をもたらす怨霊や行疫神を崇め祀るものが存在します。この御霊や疫神の信
仰は平安時代の初期から中期にかけて盛行しましたが,その代表的なものには,菅原道
真公(845〜903)の御霊を祭る北野天神と牛頭天王を祀る祇園社があります。ところで
近年こうした御霊や疫神の信仰が,修験道の萌芽と密接な関係を持つことが注目されて
います。それは疫病や天変地異をもたらす怨霊を鎮め,それを御霊としたり,行疫神を
鎮める密教的修法が,山岳修行によって験力を修めた験者 − 修験 − によってなされ,
こうした修験の集団や儀礼から修験道が育まれたからです。このうち御霊に関しては,
具体的にはその例として,貞観五年(863)当時蔓延した疫病を早良親王以下六人の怨霊
の祟りであるとして,神泉苑においてこれを鎮め,祀るために行った御霊会の講師を勤
めた慧達が比良山の修験であったことが挙げられてます。また金峰山から他界に赴いて
菅原道真公の怨霊である太政威徳天に逢い,当時の天変地異の原因を教えられた道賢も
修験の一人です。因みに道真公の怨霊は,西京の七条二坊に住する多治比のあや子や,
比良宮の禰宜神良種の七歳の男に憑依して託宣を下し,京都北野の右近馬場に北野天神
(現北野天満宮)として祀られて御霊となったのです。そこで本項においては北野天神
の創建の経緯とそこに観られる修験の関与を主として「北野天神縁起」に基づいて紹介
することとします。
 
(1) 北野天神縁起とその宗教社会的背景
 北野天神縁起は菅原道真公の伝記,死後の祟り,北野社の創建,その霊験を記したも
ので,鎌倉時代初期に成立し,以後諸国の天満宮などに絵巻の形で流布したものです。
その詞書の最古のものは,建久五年(1194)書写の奥書がある『天満記』(建久本)で
す。しかしながら筋が整い,しかも古体を示すのは建保年間(1213〜19)に成る『北野
事跡』(建保本)です。そしてこれらの詞書に絵を付した最初の絵巻は,承久元年(
1219)に成る『根本縁起』(承久本)とされています。尤もこれは本文の途中までを絵
巻にした未完本です。なお源豊宗は,北野天神縁起の編作者は慈円,『根本縁起』の詞
書の筆者は藤原道家等,絵の作者は大輔法眼尊智と推測しています。
 ここでまず北野天神縁起に観られる道真公の怨霊の祟りや,北野社創建の宗教社会的
背景を眺めておくことにしましょう。すると奈良時代の宝亀元年(770)には疫病を防ぐ
ために京師の四隅と畿内の十堺において疫神祭がなされ,宝亀六年(775)にも旱魃に対
して畿内諸国において疫神を祀らせています。そして平安時代に入りますと,既述のよ
うに貞観五年(863)五月二十日に神泉苑において御霊会が行われています。これは早良
親王(桓武天皇弟,後の崇道天皇),伊予親王(桓武天皇の子),藤原吉子(伊予親王
の母),観察使(藤原仲成?),橘逸勢,文室宮田麻呂の冤魂が祟ったことによって疫
病が頻発したとして,それを鎮め祀るために催されたものです。なおこの六人は何れも
平安時代初頭,桓武天皇が強力な政治力の下に遷都して律令政治の正道化を図ろうとし
た際に,謀反の罪で配流又は幽閉され,自殺したり処刑されています。ところがその後,
彼等をこうした状況に追いやった関係者が急死したり,疫病が蔓延しました。そこで世
間においてはこれをその怨霊の祟りと噂し,朝廷においても彼等を復権させましたが,
災厄が収まらなかったことからこの御霊会となったのです。
 これと別に桓武天皇は延暦四年(785)十一月,同六年十一月に天神を交野の相原に祀
っています(『続日本紀』)。また承和三年(836)には遣唐使のために北野において天
神地祇が祀られています。更に元慶年間(877〜84)に藤原基経がやはり北野において年
穀のために雷神を祈り感応があったことから,以後北野に小祠を設けて毎秋雷神を祀っ
ています。この小祠は北野神社境内に現存する地主神社とされています。また延喜四年
(904)十二月十九日に醍醐天皇が右衛門督藤原朝臣を使いとして北野に雷公を祀ってい
ます。因みに中国においては古来牛を殺して天神を祀って雨を祈ったり,御霊を鎮めて
いました。この殺牛祭神は日本にも伝わり,わが国においても皇極天皇元年(642),天
地の異変が続いたときに牛馬を殺して諸社の神を祀っています(『日本書紀』)。また
軍事に当たって牛を殺して天を祀ったり(『魏志東夷伝』),聖武天皇の頃摂津国にお
いて漢神が祟ったとして牛を殺して祀っています(『日本霊異記』五話)。特に延暦年
間(782〜806)には疫病や天変地異を漢神の祟りとして牛を殺して祀ることが屡々行わ
れたらしく,延暦十年(791)九月には,伊勢,尾張,近江,美濃,若狭,越前,紀伊な
どにおいて百姓の殺牛祭神(『続日本紀』),同二十年(801)四月には越前においてそ
れが禁じられています(『類従国史』卷き十,神祇十,雑祭)。尤もこれは,桓武天皇
が丑年生まれであったことによるものであったらしい。
 ところで疫神の祭として広く知られているものに祇園御霊会があります。この祇園御
霊会は八坂神社所蔵の『山城国愛宕郡八坂郷祇園社本縁雑録』に拠りますと,貞観十一
年(869)疫病が流行した際,八坂において疫神の祭がなされましたが,この折洛中の男
児及び郊外の百姓が疫神の牛頭天王ゴズテンノウ泉苑に送ったのに始まるとされています。
これに関して林屋辰三郎は,八坂には帰化人系の八坂連が祀る天神社がありました。そ
してここでは其処に祀られている漢神に対して豊穣や祈雨のために殺牛祭神がなされて
いました。やがてこの神は雷神の結び付けられ,怨霊を鎮める天神と崇められました。
そして,その祭が牛の頭を切り神に供えることから祭神そのものを牛頭天王と呼ぶよう
になり,怨霊の祟りによる疫病を鎮める牛頭天王が成立した,との興味深い解釈を試み
ています。
 こうした宗教社会的状況の中において,菅原道真公は承和十二年(845)是善の子とし
て生まれました。道真公は学者・文人として知られ,人望もあったことから藤原氏を抑
えるために重用され,蔵人頭を経て右大臣に任じられました。しかしながら藤原時平の
中傷により,昌泰四年(901)一月二十五日の宣明において,太宰権師に左遷され,延喜
三年(903)二月二十五日太宰府において失意のうちに死亡しました。するとそれと期を
一にして,同年四月には旱魃が続き疫病が流行しました。朝廷ではこれを道真公の怨霊
の祟りと怖れたのか,同年四月二十日,前記昌泰四年の宣明を取り消し,道真公の霊に
火雷天神(大富天神とも)との称号を与えました。けれども延喜五年(905)には彗星が
出現し,同年八月十九日には,太宰府の味酒安行に神託があり,それに基づいて葬地に
祠廟を建立して,道真公の霊を天満自在天神と名付けて祭祀しました(『菅家御伝記』
)。けれども延喜八年には旱害が続き,同年八月七日には,時平に荷担した藤原菅根が
急逝しました。更に翌九年春には疫病が流行し,夏には霖雨と洪水が続きました。朝廷
においては浄蔵に祈祷させましたが効果はなく,時平を始め一族も死亡した。また翌十
年は春に大風雨,夏には旱害,翌年にも洪水に見舞われました。
 その後しばらく小康が続きましたが,延喜二十三年(925)二月二十一日,皇太子保明
親王が死亡し,世間においてはこれを道真公の怨霊のせいと噂しました。そこで延長と
改元の上,道真公を本官の右大臣に復し,正二位を追贈しました。けれども延長八年(
930)六月には清涼殿に落雷し,時平に味方した藤原清貫,右中弁平希世などが雷死しま
した。朝廷においては尊意に祈祷させたが効果はなく,疫病が蔓延し,諸大寺の火災が
相続きました。また東国においては平将門,西国において藤原純友による反乱が起こり
ました。金峰山において修行中の道賢が道真公の霊に災因を教えられ,地獄において醍
醐天皇に逢ったとの話は,丁度この頃に当たる天慶四年(941)のこととされています(
『道賢上人冥途記』)。また翌五年には,多治比のあや子に託宣があり,これに基づい
て天満天神が祀られ,更に天暦元年(947)に比良宮禰宜神良種の男子太郎丸に託宣があ
り,同八年には藤原師輔の外護の下に北野天神社が創建されました。
 その後正暦四年(993)には道真公に左大臣,正一位,太政大臣が追贈されています。
けれども同五年(994)には疫病が蔓延し,六月に疫神鎮めの御霊会が北野船岡において
行われました。その後永承元年(1046)八月十五日には北野御霊会がなされ,これが以
後北野天満宮の例大祭となって行くのです。
 以上のように菅原道真公の怨霊が北野天神として祀られるに到る背景には,古来の天
神,牛を殺して天神に豊穣を祈る祭,それが展開した疫神や怨霊鎮めの御霊会や祇園の
牛頭天王の祭が存在していました。そして道真公の死後,その左遷に関わった人の死,
天変地異,戦乱を道真公の怨霊のせいとする民衆の噂,それを裏付けるかのようなシャーマン
的宗教者の他界遍歴譚や託宣があったのです。そしてこれらの断片的な伝承を編集して
よりリアルに描いたものが「北野天神縁起」と考えられるのです。
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