06a 修験道と神道1
〈三輪・伊勢と修験道〉
大和の東に位置する美しい神奈備カンナビの三輪山を御神体とする大神神社は,日本古来
の山岳信仰を示すものとして数多くの研究者に注目されてきました。こうした先学の研
究に従いますと,三輪山はその当初から神霊の住まう聖地として禁忌され,崇められて
いました。やがてその神霊は雷神,蛇の姿をした水神と考えられるようになり,更には
大己貴命の幸魂サキミタマ,奇魂クシミタマとされて行きました。そした崇神天皇七年には,この
神の子大田田根子が祀ることによって,天皇の国土経営を助ける神となって行きます。
爾来この大神神社は大田田根子を祖とする大神氏の氏神となるのです(『日本書紀』巻
五)。その後時代が下がって貞観元年(859)には正一位が贈られ,大和一宮とされてい
ます。因みに『令義解』の「神祇令」第一条において,大神神社は地祇の筆頭として,
天神の筆頭である伊勢と並ぶわが国の代表的な神社に挙げられています。
一方,伊勢の皇大神宮の起源は,崇神天皇六年にそれまで宮中の大殿に祀られていた
天照大神が皇女の豊鍬入姫命に託して倭の笠縫邑に祀らせたとの『日本書紀』巻五の記
録を嚆矢コウシとしています。ところで,この笠縫邑の社は,現在大神神社の摂社である桧
原神社とされています。としますと三輪と伊勢の深い関係は,神代まで遡ることになる
のです。その後垂仁天皇二十五年三月,天照大神は皇女倭姫命に憑き,新たな鎮座地を
求めて,大和の宇陀,近江,美濃を遊幸した後に伊勢国の五十鈴川の川上に鎮座されま
す。これが内宮ナイクウ(皇大神宮)の起こりです。なお『日本書紀』の一書においては,
その年十月に祠が度会に遷されたとしています。これに対して外宮ゲクウの豊受大神は,
平安時代初期に成る『止由気宮儀式帳』に拠りますと,雄略天皇の御代に,丹波の比治
の真奈井に御鎮座の天照大神の御饌神の等由気大神を,度会の山田原に迎えられたもの
とされています。しかし,正史には何ら記されていません。これに加えて,外宮の神官
が外宮の所在地の地名である度会と符合する度会氏であるのに対し,内宮の神官が新た
な居住者を指すとも思われる荒木田氏であることから,外宮は,内宮の遷座以前にこの
地に居住していた土地の豪族度会氏の守護神であったとする説もあります。
何れにしろ六,七世紀頃には,大和の大神神社,伊勢の内宮・外宮が成立したと推測
されるのです。
さてその後,仏教の浸透に伴って神社に神宮寺が設けられるようになります。伊勢に
おける神宮寺の初見は,『続日本紀』文武天皇二年(698)十二月の条所載の斎宮のある
多気の地に在った神宮寺を仏穢を避けてか,度会郡に移建したとの記事です。その後天
平神護二年(766)には,この神宮寺に丈六の仏像が安置されています。
一方三輪に於ける神宮寺の初見は,『延暦僧録』における,唐招提寺の別当を勤めた
鑑真から菩薩戒を受けた釈浄三が,天平宝治年間(757〜765)頃大神寺において三輪の
若宮の法楽のために六門陀羅尼経を講じた,との記載です。なお,時代は下がりますが
十二世紀前半頃成立の『今昔物語』巻二十には,天武,持統に両朝の仕えて功のあった
三輪の大田田根子を祖とする豪族大神高市麿が,大和国城上郡三輪の自宅を三輪寺とし
たと記されています。それ故この神宮寺も大神神社と同様に,大田田根子を祖とする大
神氏によって祀られた寺であったと考えられるのです。因みにこの三輪寺には,本尊十
一面観音,脇士地蔵菩薩が祀られていました。
さてこうした奈良時代における当初の神宮寺の成立状況を観ますと,伊勢の神宮寺は
聖域就中ナカンズク斎宮の在所を避けて,その周辺部に移されています。一方三輪の神宮寺
の場合は,主神ではなくその皇子である若宮(王子)の法楽のために造られいます。た
だ三輪においては,陀羅尼を唱えたり,悪疫退散を祈るなどの祈念がなされています。
その後古代末から中世初期になりますと,新たに修験的な遊行宗教者の手になる寺院が
造られました。三輪山においては,修験霊山において修行し,死穢の中において即身成
仏の秘印を授かり,護法を使役した遊行修験者慶円(1140〜1223)が三輪の別所に開い
た平等寺,鋳物師や渡守と関係を持つ遊行宗教者の玄賓(818没)の庵などが成立してい
ます。特に平等寺は,室町時代に近畿地方の主要な寺院に依拠した真言系修験の結社で
ある当山三十六正大先達寺の一つに数えられています。一方伊勢においては,外宮の背
後の前山の世義寺や朝熊山の金剛証寺の経塚に観られるように,如法経(法華経)修行
や菩提のための修験的寺院が建立されています。このうち世義寺は十四世紀初頭に円海
によって中興され,後には当山三十六正大先達の重鎮となっています。また金剛証寺も
十五世紀初期に中興されました。
こうした修験的な聖とは別に鎌倉時代には,南都の仏教を代表する貞慶(1155〜1213
),重源(1121〜1195),叡尊(1201〜1290)なども伊勢参宮をしたり,三輪とも関わ
りを持っています。尤も貞慶は笠置,重源は大峰,叡尊は醍醐と云うように,彼等にし
ても,修験霊山において修行し,密教や神祇にも関心を持っていました。そして伊勢に
おいては内宮の荒木田氏,外宮の度会氏の氏寺において法要を行っていました。中でも
叡尊は伊勢に弘正寺を開いて,金剛界・胎蔵界の大日如来を内外宮の本地として祀って
いるのです。また通海(1305〜6頃没)のように,神宮祭主の大中臣家に生まれながら醍
醐寺において修行し,密教思想に則ノットって伊勢の神格を説明し,法楽のために読経や護
摩を修する者が出現しました。世義寺を中興した円海にしても,中央の密教僧の智円の
影響を受けているのです。
やがてこうした伊勢において育まれた両部神道の思想は,三輪に大御輪寺を中興した
叡僧等によって三輪に持ち込まれます。彼が著した『大御輪寺縁起』は三輪と伊勢の同
体を説き,三輪の神格や状景に関する両部神道的説明がなされ,やがて三輪流神道にと
結実して行きます。因みにこの三輪流神道の思想や次第の中には,修験道と共通のもの
が数多く認められるのです。一方伊勢においては,前山の世義寺,朝熊山の金剛証寺の
他に大和から伊勢への入口にあたる飯高郡丹生山丹生神社の神宮寺,熊野からの伊勢へ
の入口の仙宮院など,神宮を取り囲むように周辺の霊山に修験の拠点が造られて行きま
した。これらはまた,朝熊山,東大峰と通称される仙宮院など他界と結び付いたり,丹
生のように水銀の存在を彷彿とさせる処です。しかもこのそれぞれにおいて修験的色彩
の強い書物が創られたのです。
空海の開基伝承を記す朝熊山や丹生大神宮の縁起,役行者が開いたとする仙宮院の縁
起,大神と大峰の言を記したとの記載のある世義寺に関わる『鼻帰書』などがこれです
が,これらは何れも修験者が創ったと推測されるのです。そしてわが国の根源として独
鈷トッコを重視する『鼻帰書』,内宮・外宮を胎蔵界大日・金剛界大日に充当する『鼻帰書
』や『仙宮院秘文』,空海が虚空蔵求聞持法を修したとする朝熊山の縁起に観られるよ
うに,その内容も『大和葛城宝山記』など修験霊山の縁起と類似しています。尤も内宮
・外宮を胎蔵界・金剛界など密教的原理で説明する試みは,修験道のみでなく,両部神
道においてもなされているものです。そして伊勢において結実したこの両部神道の思想
が,三輪に持ち込まれて,修験的色彩の強い三輪流神道に成って行くのです。こうした
経緯を考えますと修験道における密教的思想は両部神道と同じ土壌から育まれて来たと
も云えましょう。そして更に推論を進めますと,こうした両部神道や修験道にも共通す
る思想は,伊勢や三輪を拠点とした密教や神道に詳しく,修験にも関心を持つ僧侶等に
よって創られたとも思われるのです。そしてそのうち,修験者に伝えられたものは修験
的に脚色されてその教義書や儀軌となり,神宮の内において継承されたものは三輪流神
道や御法流神道にと結実して行ったと考えられます。なお近世に入りますと伊勢の世義
寺,三輪の平等寺の当山派正大先達寺院においては,より里人と結び付いた修験の活動
がなされているのです。
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