05 修験道と山岳信仰
修験道と山岳信仰
参考:春秋社発行「修験道と日本宗教」
〈はじめに〉
修験道は,日本古来の山岳信仰がシャーマニズム,仏教,神道,道教などの影響の下に,古
代末になって成立宗教の形態を執るようになったものです。この宗教においては,山岳
などでの修行,それによって体得した験力を用いて行う呪術宗教的活動を中核としてい
ます。
さて,縄文時代(1万年以前~紀元前3世紀)の日本人は,日本列島の9割を占める
山や森林において,採集,狩猟の生活を営んでいました。彼等の間では,獲物を与えて
くれる山の神の信仰が認められました。やがて弥生時代(紀元前3世紀~3世紀)にな
って人々が里に定住して水田稲作をするようになりますと,山の神は,農耕や生活に欠
かせない水を与えてくれる水分神ミクマリノカミと考えられるようになりました。里人は,山を
山の神を始めとする諸神,諸魔の住まう聖地として畏敬し,山麓に祠を作って,豊作祈
願の春祭と感謝の秋祭を行いました。これが神道の淵源です。こうした祭においては,
神意を聞く託宣が中核を占めていました。この託宣は,当初は巫者に神霊が憑依する受
動的なものでした。しかしながら積極的に自己又は他者に神憑けをする必要もあって,
シャーマニズムの精霊操作の技法が導入されました。また山は死霊の赴く他界とされ,古墳時
代(4~7世紀)になりますと,山麓に豪族の墓が造られました。因みに里に設けられ
た天皇の墓も山陵と呼ばれています。
古墳時代から飛鳥時代(592~710)にかけては大陸からの帰化人が多くなり,帰化人
等によって道教や仏教がもたらされました。道教は入山修行して仙人に成ることを目指
しており,仏教も山林などでの夏安居を重視していました。ただ仏教は,欽明天皇三年
(538)に百済の聖明王から仏像や経論が天皇に献じられたとされる公伝以来,蕃神若し
くは学問として摂取されました。そしてその後の律令体制下の奈良時代(710~794)に
は国家仏教となって行きました。尤も僧侶の中には,吉野などの霊山に篭もって修行す
るものもいました。こうした山林修行者は,里人からは山の神の霊力を得たものとして
その験力が期待されました。中でも葛城山において修行した役小角エンノオヅヌ(~699~),
行基(668~749),道鏡(772没)などは広く知られています。比叡山において天台宗を
開いた最澄,高野山を開いた真言宗の祖空海もこうした山林修行者の流れを引いていま
す。
平安時代(794~1185)に入りますと,貴族の間において密教による加持祈祷がもては
やされ,験者と呼ばれる密教僧の多くが,大峰などの霊山において修行しました。彼等
は山において修行することから山臥・山伏,験力を修めた者と云う意味で修験者と呼ば
れました。吉野川に渡しを設け,大峰山の峰入りを再開した醍醐寺の開基聖宝(832~
909),比叡山の回峰行を始めた相応(918没)などは修験者として広く知られています。
当時は菅原道真公の霊を始めとする怨霊の祟りが怖れられ,修験者にこれを鎮めること
が期待されました。また彼等は牛頭天王などの行疫神の祭祀にも関わって行きました。
平安中期になりますと末法の到来が説かれ,浄土信仰が盛行しました。そして弥勒の
浄土とされる御岳(金峰山)詣が行われました。また院政期には阿弥陀の浄土とされた
熊野詣が盛んになりました。そして金峰山や熊野には一山組織が形成され,数多くの修
験者が集まるようになりました。なお寛治四年(1090)に熊野御幸をした白河上皇は,
先達を勤めた園城寺の増誉を熊野三山検校に任じ,京都に聖護院を賜られました。これ
以来,熊野の修験は,熊野三山検校を重代職とした園城寺に統括されることになりまし
た。
鎌倉時代(1185~1333)末になりますと熊野においては,諸国から先達に導かれて熊
野詣をする檀那の宿泊,祈祷に携わる御師が成立しました。先達の多くは,各地の霊山
や社寺に依拠した熊野山伏が勤めました。室町時代(1336~1573)末には,熊野三山検
校職は園城寺末の聖護院の重代職となりました。聖護院においては京都に熊野三山奉行
(院家若王子乗々院,重代職)や院家を擁して,諸国の熊野山伏を掌握して本山派と呼
ばれる教派を形成しました。一方近畿地方の法隆寺,高野山,根来寺,近江飯動寺,伊
勢世義寺など三十六余の寺社に依拠した修験者は,金峰山の奥に位置する小笹に拠点を
置く,当山三十六正大先達衆と呼ばれる結社を形成しました。また大和の金峰山,日光,
白山,富士,木曽御岳,伯耆大山,石槌山,彦山など各地に修験霊山が成立しました。
本山派においては役小角を,当山三十六正大先達衆は聖宝をそれぞれ派祖としました。
また金峰山の修験は金剛蔵王権現,熊野は熊野十二所権現を主尊としました。本・当両
派の修行道場である金峰から熊野に到る大峰山は,吉野側半分は金剛界,熊野側は胎蔵
界の曼陀羅に準ナゾラえられました。また葛城山系には法華経二十八品のそれぞれを納め
る経塚が作られました。山中においては抖ソウ(手扁に数)トソウ(頭陀)と合わせて地獄
・床堅,餓鬼・懺悔,畜生・業秤,修羅・水断,人・閼伽,天・相撲,声聞・延年,縁
覚・小木,菩薩・穀断,仏・正潅頂と云うように十界のそれぞれに充当された十界修行
を行って,即身成仏が図られました。これらの修行によって験力を体得した修験者は,
人々の現世利益的な希求に応えて卜占,巫術,加持祈祷,符術などの活動をしました。
この卜占には陰陽道,巫術にはシャーマニズム,加持祈祷には密教,符術には道教や陰陽道の
影響が認められます。
江戸時代(1600~1867)になりますと幕府は,慶長十八年(1613)に修験道法度を定
め,諸国の修験者を聖護院を本山とする本山派と,醍醐三宝院が統轄した当山十二正大
先達衆(正大先達寺が12に減少)を中核とする当山派の両派に分属させました。尤も吉
野修験や羽黒修験など霊山の修験には天台宗に属する者も多かった。本山派においては,
各地の主要な修験者に年行事の職を与え,霞と呼ばれる一定地域での活動を公認しまし
た。一方醍醐三宝院においては,在来の当山十二正大先達が各自の輩下の修験を直接掌
握する袈裟筋支配の他に,新たに江戸鳳閣寺を諸国総袈裟頭に任じて,直属の修験者を
作って行きました。修験者は地域社会に定住して鎮守や小祠の別当,霊山登拝の先達,
卜占,加持祈祷,符術などの活動をしました。江戸時代中期以降になりますと大峰,出
羽三山,英彦山,富士山,木曽御岳などにおいては,庶民の登拝講が輩出し,中でも富
士講や御岳講が盛行しました。
明治政府は慶応四年(1866)に神仏分離令を発し,明治五年(1872)に修験道を禁止
しました。その結果熊野,羽黒,白山,立山,英彦山などの修験霊山は神社化し,在地
の修験者は還俗したり,氏神鎮守の神職となりました。尤も修験道禁止令においては,
修験者を本寺所轄のまま本山派は天台宗,当山派は真言宗に所属させました。また富士
講は扶桑教・実行教,御岳講は御岳教と云うように教派神道として公認されました。明
治末から昭和にかけては霊山登拝が盛んになったこともあって,修験道は天台・真言の
仏教教団内で重視され,勢力を盛り返して行きました。。また修験道の影響を受けた新
宗教も出現しました。
第二次世界大戦終了後には,旧本山派の本山修験宗・修験道,当山派の真言宗醍醐派,
金峯山修験本宗,羽黒山修験本宗,石槌本教など数多くの修験道教団が独立しました。
更に真如苑,解脱会など修験系の新宗教も成立しました。また出羽三山神社,英彦大神
宮など修験霊山の神社においては峰入などの修験道的な行事を行っています。
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