86 菅家文草〈右大臣の職を辞す第一表〉
参考:太宰府天満宮文化研究所発行「菅家の文華」
〈右大臣の職を辞す第一表〉
臣道~言モウさく、伏して今月十四日の詔旨を奉ずるに、臣を以って右大臣に任ず。仰
いで天の慈を載くこと惜オく所を知らず。(中謝)
臣は地モト貴種に非ず。家は是れ儒林なり。偏へに太上皇往年の抜擢の恩に依り、自
オノズから諸公卿に至る。今日昇進の次ツイデに、寝ぬる無く、食する無く、以って思ひ、
以って慮るに、人すでに縦容ショウヨウせず、鬼瞰キカン必らず涯眥ガイサイを加へん。伏して願は
くば、陛下高く聖鑑セイカンを廻メグらし、早く臣の官を罷めさせたまへ。唯に志を匹夫に奪
はざるのみにあらず、亦復マタ、望を衆庶に従はむことを得む。懇欸コンカン屏営ヘイエイの至り
に堪へず、上表して以って聞ブンす。臣道~、誠惶誠恐、頓首々々、謹みて言モウす。
昌泰二年二月廿七日正三位守右大臣行右近衛大将臣菅原朝臣
「人すでに縦容せず、鬼瞰必らず涯眥を加へん」とは、人心もゆるさず、鬼も目を怒
らして見下すにちがいない。天人ともに許さざる所の意。
〈重ねて右大臣の職を解かんことを請ふ第二表〉
臣道~言さく、去月廿八日、中使従四位上修理大夫兼行中将備前権守在原朝臣友至、
恩旨を奉宣し、臣が上表を返したまふ。天、覆はざるなし、臣が為に何ぞ其の周アマネキを
約ツヅメんや。日、臨まざるなし、臣が為に何ぞ其の照アカルキを韜クラマさんや。(中謝)
臣、初め秀才に挙げられ、後に博士と為りてより、頻りに遷りて止まず、俄かに崇班
スウハンを悉くす。曩者ムカシ、孫弘は高弟にして、韋賢は大儒なりき。其の専統に居り、具瞻
グセンを属ツナぐに至りしは、年已に耆キたると、学愈々明らかなるとの為なり。年を以って
之を言へば、臣の孫弘より少ワカきこと二十年、学を以って之を論ずれば、臣の賢に及ば
ざること千万里なり。況んやまた当時納言にして臣の下に居る者は、将相の貴種か、宗
家の清流なり。是れ皆、臣が書巻を飽きて黌門コウモンに遊ぶの日、位望先づ貴とく、冠蓋
自オノズから高し。臣もと已ヤむを獲ずして朝列に就くべくば、なほ炉炭ロタンに距キョして焼
亡するを待ち、冶氷を履みて陥没を期するがごとし。遠く漢代を尋ね、近く周行を計る
に、上は蒼昊ソウビンを畏れ、下は黔庶テンショを恥づ。歩、歩むに安からず、何を以ってか手
を綱紀に授けむ。心、心に摂ヤスからず、自然に顔を官(車偏+官)轄カンカツに慙ハづるの
み。
伏して惟みるに、陛下、寵命を追回ツイカイし、臣が官を解きて、改めて其人に授け、賢
をして路を得せしめたまへ。戦越センエツ兢昜(立心偏+昜)キョウテキの至りに堪へず、謹んで
再び表を奉り、陳乞チンキツして以って聞ブンす。臣道~、誠惶誠恐、頓首々々、死罪々々、
謹みて言す。
昌泰二年三月四日正三位守右大臣云々
「天、覆はざるなし、臣が為に何ぞ其の周を約んや」とは、天が万物を覆い、太陽が
万物を洩れなく照らすように、天子の洩らす処のない御仁慈が臣道真にも及ぶを云う。
「曩者、孫弘は高弟にして、韋賢は大儒なりき。其の専統に居り、具瞻を属ぐに至り
しは、年已に耆たると、学愈々明らかなるとの為なり。年を以って之を言へば、臣の孫
弘より少きこと二十年、学を以って之を論ずれば、臣の賢に及ばざること千万里なり」
とは、昔、漢の孫弘は優秀な成績で及第した天才、韋賢は大学者であった。それであっ
て、二人が宰相の地位に昇り国民の信頼を得たのは、孫弘が年老いての後であり、韋賢
は、その学がずば抜けて深かったせいである。この二人に比べれば、年も若く、学も浅
い私では、とても大臣は勤まりませんと、学者の高位高官に昇ることの例は少なく、難
しいことを云う。
「況んやまた当時納言にして臣の下に居る者は、将相の貴種か、宗家の清流なり」と
は、今は納言で、私の下役に居る者は、大臣大将の門閥家の出身か、皇族から臣籍に降
った方である。将相の種は藤氏、宗家の清流は源氏を指す。
「なほ炉炭に距して焼亡するを待ち、冶氷を履みて陥没を期するがごとし」とは、炭
火の上に屈カガみ込んで焼死し、解けた氷を踏んで水中にはまり込むように、重大な危機
を招くを云う。
「遠く漢代を尋ね、近く周行を計るに、上は蒼昊を畏れ、下は黔庶を恥づ」とは、遠
く漢時代を尋ね、近くは最近数十年のことを考えても、私如きが右大臣をお受けするな
どその例がなく、必ずや神の思召しに違い、国民にも相済まぬことになろう。「周行」
は、恐らく「周甲」の誤りであろう。
〈重ねて右大臣を解かれんことを請ふ第三表〉
臣道~言さく、今月四日、中使従五位下守右近衛少将源朝臣緒嗣、天旨を奉伝し、懇
請を聴ユルさず。臣、恩を戴くこと惟コれ重く、海鼇カイゴウの首勝タへ難く、感を祈モトむるこ
と休せず、皐鶴コウカクの声竭ツきんとす。(中謝)
臣、地望荒麁コウソ、售ウるに箕裘キキュウの遺業を以ってし、天資浅薄、飾るに蛍雪の末光
マッコウを以ってす。図ハカらざるに、太上天皇、南海の前史より抜きんでられ、聖主陛下、
東宮の旧臣を棄てたまはず、毛を吹くの疵、栄華に逐ひて鉾ホコサキのごとく起り、骨を鎖ケ
すの毀ソシリ、爵位に随って荐シキりに臻イタる。嗟處(處の処の代わりに乎)アア、衣を區(手
偏+區)カイツクらふに惶イトマあらず。星霜僅かに十一年を移るのみなるに、屋を潤すに限り
なく、封戸忽ちに二千に満つ。臣みづからその過差カサ(遇差とも)を知る。人孰イズれか
彼カの盈溢エイイツを怨ユルさむや。顛覆テンプクは流電より急に、傾頽ケイタイは踰機ユキに応ぜんの
み。
伏して望むらくは、叡覧エイラン降臨して、宸衷シンチュウ曲ツブさに鑑ミたまへ。臣が官を削っ
て以って臣が福を全うし、臣への寵を接オサめて以って臣が身を保たしめよ。寵渥アマネく、
官崇タカきは、皆是れ、翅ツバサあらずしての飛翔なり。身安く、福景オオイなるは、豈無涯の
霈沢ハイタクにあらずや。迷懼メイクの至りに堪へず、重ねて以って拝伏して陳言す。臣道~、
誠惶誠恐、頓首々々、死罪々々、謹みて言す。
昌泰二年三月廿八日正三位守右大臣云々
「恩を戴くこと惟れ重く、海鼇の首勝へ難く、感を祈むること休せず、皐鶴の声竭き
んとす」とは、御恩の重さには、大海亀の首も堪えられぬ程、御恩の有り難さを叫び続
けては、鶴の声も涸れんとするばかり。
「臣、地望荒麁、售るに箕裘の遺業を以ってし、天資浅薄、飾るに蛍雪の末光を以っ
てす」とは、私は地位も声望も低く、僅かに祖業の文学で録を食み、天性の才能も乏し
いこととて、些かの刻苦勉励で、今日の教養を辛うじて身に着けている。
「毛を吹くの疵、栄華に逐ひて鉾のごとく起り、骨を鎖すの毀、爵位に随って荐りに
臻る」とは、私への欠点アラ探し、悪質な避難は、官位が進むに連れて、いよいよ繁くな
った。
「顛覆は流電より急に、傾頽は踰機に応ぜんのみ」とは、私の失脚が、電流より急に、
弾ハジき弓よりも早く来ることは間違いない。
これらの文に見るように、この辞退は決して儀礼的なものではない。血で綴った、命
賭けの辞表であった。
この熱涙の辞表に対しても、遂にお聴しがなかったのみでなく、却って天皇のお怒り
を招き、「汝は朕を捨てんとするか」の仰言を戴くに至っては、臣下として、日本人と
して、どんな心境になり、どんな決意を抱くに至るか。出家遁世も許されない。この上
は一身一家を省みず、ひたすらに奉公の誠を尽くす外はない。このことを知れば、これ
からの道真公の政治家としての立場も、左遷への成り行きも、理解しやすい。
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