108e 菅家後草〈叙意一百韻〉
 
 「山は遥かに縹緑を看、水は遠く潺湲を憶ふ」の二句だけを見ると、春の叙景だが、
この部分の最初に左遷後九ケ月を経過したとあるので、十一月頃の小春日和の景だと見
たい。
 
 こんな、外面を眺めて京恋しさに駆られていた折の作であろう、公に次の歌がある。
 
 足曳のかなたこなたに道はあれど 都へいざといふ人ぞなき(新古今)
 刈萱の関守にのみ見えつるは 人もゆるさぬ道べなりけり(同)
 
 刈萱の関址は、今都府楼址の東方五丁の処にある。
 
(九)
却尋初営仕     却カヘって尋ぬ、初め仕を営みしとき
追計昔鑚堅     追って計る、昔堅ケンを鑚キりしことを
射毎占正鵠     射ては毎ツネに正鵠セイコウを占む
烹寧壊小鮮     烹ニては寧ナンぞ小鮮ショウセンを壊さんや
東堂一枝折     東堂トウダウに一枝を折り
南海百城専     南海に百城専らにす
祖業儒林聳     祖業は儒林聳ゆ
州功吏部銓     州功シュウカウは吏部リブ銓ハカる
光栄頻照耀     光栄は頻りに照耀セウエウし
組珮競營(營の呂の代わりに糸)纏 組珮ソハイは競うて營(營の呂の代わりに糸)纏エイテン
          す
責重千鈞石     責セメは千鈞の石よりも重く
臨深万仭淵     臨むことは万仭の淵よりも深し
具瞻兼将相     具瞻グセン将相セウセウを兼ぬ
僉曰欠勲賢     僉ミナ曰ふ勲賢クンケンを欠ぐと
試製嫌傷錦     製セイを試みては錦を傷つけんことを嫌ひ
操刀慎欠鉛     刀を操っては鉛エンを欠がんことを慎む
兢々馴鳳戸(戸冠+衣) 兢々キャウキャウとして鳳戸(戸冠+衣)ホウイに馴れ
慄々撫龍泉     慄々リツリツとして龍泉リョウセンを撫づ
脱徒(尸冠+徒)黄埃俗 徒(尸冠+徒)シを脱ぐ黄埃カウアイの俗ゾク
交襟紫府仙     襟エリを交ふ紫府シフの仙セン
桜花通夜宴     桜花は通夜の宴
菊酒後朝筵     菊酒は後朝コウテウの筵エン
器拙承豊沢     器は拙うして豊沢ホウタクを承け
舟頑渡巨川     舟は頑ガンにして巨川を渡る
国家恩未報     国家恩未だ報いざるに
溝壑恐先填     溝壑カウガク先づ填ウヅまんことを恐る
潘岳非忘宅     潘岳ハンガク宅を忘るゝに非ず
張衡豈廃田     張衡テウコウ豈に田を廃せんや
風摧同木秀     風摧クダいては木の秀ヒイでたるに同じく
燈滅異膏煎     燈滅トウメツしては膏アブラの煎るに異なる
苟可営々止     苟モし営々として止るべけんも
胡為脛々全     胡為ナンスれぞ脛々ケイケイとして全からん
覆巣憎殻卵     巣を覆へしては殻卵コクランを憎み
捜穴叱虫(虫偏+氏冠+一)虫(虫偏+彖) 穴を捜しては虫(虫偏+氏冠+一)虫(
          虫偏+彖)チテンを叱シッす
法酷金科結     法は酷にして金科キンクワに結ばれ
功休石柱鐫     功コウは休して石柱セキチュウに鐫ホらる
悔忠成甲冑     忠チュウを甲冑カッチュウと成せしを悔い
悲罰痛戈延(金偏+延) 罰の戈延(金偏+延)クワセンより痛きを悲しむ
 
 この段は、前段の京の山河への思慕に引き続いて、公一生の回顧、仕官から左遷まで
を追懐している。自然な回想であろう。
 
  − さて、十八歳登科して文章生に補せられたのが仕官の初めで、それ以来もいよい
よ学問に励み、傍ら武事をも疎オロソかにしなかったので、射を試みても的を外すようなへ
まはせず、勿論本務の官吏としての政務は、粗漏なく勤めた。
 「射ては毎に正鵠を占む」。公二十六才の時であった。師の都良香の邸内で朋輩が射
を試みたが、公にも誘った。必ず武技は未熟だろうから、嘲笑としやろうとしてであっ
た。ところが公の矢は悉く命中したので、驚嘆したと云う。
 「烹ては寧ぞ小鮮を壊さんや」。老子の語に「大国を治むるは、小鮮(小魚)を烹る
が如し」とあるによる。
 
  − やがて対策及第して家名を挙げ、文章博士・式部少輔に任ぜられ、出でては南海讃
岐の国守となって一国を意の如く治めた。私の家は先祖に偉大な学者が輩出している儒
学の名家であると云う先祖のお蔭と、私が国司時代の業績を式部省が調査して功績あり
と認定されたせいか、任期満ちて京へ帰るや、日成らずして昇殿を許され、蔵人頭・左中
弁から左京太夫・参議と、次々に栄進を重ね、帯びた宝石は競って輝いていた。
 「東堂に一枝を折る」。進士に及第することを「桂を折る」と云う。二十六歳の四月
に対策及第したことを指す。因みに、公二十六歳の時、母伴氏が、
 
 久方の月の桂も折るばかり 家の風をば吹かせてしがな
 
の祝歌を送って激励したが、その期待に副い得た気持ちも含めている。
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