108f 菅家後草〈叙意一百韻〉
 
  − しかし官位の累進と共に責任もまた重大を加えて来、身辺の危険も深まって来た。
遂には万人迎望の右大臣右近衛大将に進んだが、猜忌者共は、功も才もないあの道真が
よと悪声を放ったようである。
 私は世評を余所ヨソに、ただお側近くに奉仕して、ひたすら御徳を傷付けないようにと
気を配り、惺懼犬馬の微衷を捧げた。或いは民情を視察するとては路次の奥までも入り
込み、或いは政務に関して上皇御所に参内して御教示を仰ぐ等、輔佐の重任に万遺漏の
ないよう心を砕いた。
 「具瞻」は、三国魏志に「公輔の任は、皆国の棟梁にして、民の具トモに瞻ミる所なり」
とあることから、三公(太政大臣・左大臣・右大臣)のことを云う。
 「製を試みては錦を傷つけんことを嫌ひ、刀を操っては鉛を欠がんことを慎む、兢々
として鳳戸(戸冠+衣)に馴れ、慄々として龍泉を撫づ」。互文の形を執り、一句と三
句、二句と四句で接続している。「鳳戸(戸冠+衣)」は天子の御座の後方に立ってい
る衝立や屏風のこと。「龍泉」は中国古代の名工干将莫耶の夫婦が、永嘉県龍泉で鉛刀
を作ったと云う。共に間接に天子を指す。一句の「製」「錦」は三句の「鳳戸(戸冠+
衣)」と継語をなし、二句の「刀」「鉛」は、四句の「龍泉」と継語をなしている。四
句全体の意味は、御側近に奉仕して、御威光を傷付けることのないよう、戦々兢々とし
て誠心誠意御奉公申し上げたとの意である。「鉛刀」は一に鈍刀のことをも云うので、
自分の鈍才のために大治な国政に失策を来さぬよう、慎重を期した意にも取れる。
 「紫仙の府」は仙洞御所、上皇の御所を云う。十門記長洲条に「長洲は一名青邱、風
山有り、山恒に震声し、紫府の仙有り、天真仙女、此地に遊ぶ」とある。
 「溝壑先づ填まんことを恐る」。生命を失うことを恐れるの意。戦国趙策に「溝壑を
填めざるに及びて之を託す」とある。
 
  − かの晋の潘岳が職を辞して閑居したのも、また漢の張衡が野に下って農耕に従事
したのも、自ら欲してそうしたのではない、どちらも腹黒い小人や宦官等に誣シいられて
そうせざるを得なくなってやったのである。実に出る釘は打たれると云うが、林の中に
高く突き出た樹は風から吹き折られるものだし、風が烈しければ油は切れてなくても燈
火は消えるものである。私も官位が高過ぎたために、讒に会ったのである。あの時、例
え私が極力策を弄して、ためにその地位に留まることが出来ていたとて、身の安全は保
証し得ようか。
 「潘岳宅を忘るゝに非ず、張衡豈に田を廃せんや」。潘岳は晋の人、字は安仁。才名
世に聞こえ、「西京間居の賦」などの詩が多い。張衡は後漢の人、字は平子、「帰田賦
」など多くの詩賦を遺している。両人共に官に仕えて志を得なかった。「宅を忘れんや
」「田を廃せんや」は、彼等の代表作「間居」「帰田」の賦名を採って用いた。
 「風摧いては木の秀でたるに同じく」は、文選の季粛遠の運命論中に、「夫れ忠直の
主に牾サカラひ、独立の俗に負ソムくは、理勢然るなり。故に木、林に秀でては風必ず摧くな
り。堆、岸に出でては流必ず湍タギるなり」とあって分明である。
 
  − 然も藤氏一派は、私を下降するだけで満足せず、苛酷にも一族縁者に至るまで罪
した。私は今、厳しい法の桎梏に縛られているのみならず、一生の功績は抹殺せられて、
捏造された罪状だけが永久に伝えられるようになった。忠一途ならば、何の怖るるとこ
ろがあろうと信念してやった事が、却って災を招き、悲しくも今の酷しい刑罰に遭った
のである。
 「巣を覆へしては殻卵を憎み、穴を捜して虫(虫偏+氏冠+一)虫(虫偏+彖)を叱
す」。文選に張衡作の西京賦中に、「上逸飛無く、下遺走無し。胎を穫(手偏の穫)り
卵を拾ひ、虫(虫偏+氏冠+一)虫(虫偏+彖)尽く取る。楽を取る今日、我が後を恤
アハレむに遑イトマなし」とある。虫(虫偏+氏冠+一)はアリ、虫(虫偏+彖)はイナゴ。
 
 以上、吾と吾に聞かせる愚痴である。人には言えぬ自慢もしよう、自惚れもあろう。
 
(十)
巣(王偏+巣)々黄茅屋 巣(王偏+巣)々サウサウたる黄茅コウボウの屋ヲク
茫々碧海需(土偏+需) 茫々たる碧海ヘキカイの需(土偏+需)セン
吾盧能足矣     吾が盧リョは能く足りぬ
此地信終焉     此の地は信マコトに終焉シュウエン
縦使魂思見(山偏+見) 縦使タトヒ魂タマシヒ見(山偏+見)ケンを思ふとも
其如骨葬燕     其の骨を燕エンに葬るを如イカにせん
分知交糺纏     分ブンは糺纏キウテンに交はるを知る
命巨(言偏+巨)質筵專(竹冠+專) 命メイは巨(言偏+巨)ナンぞ筵專(竹冠+專)
          エンセンを質タダさんや
叙意千言裏     意を叙ノぶ千言の裏ウラ
何人一可憐     何人か一に憐むべき
 
 斯様にして配流せられた私の住居は、遥か西の果、海原の辺ホトリに建つあばら屋だが、
配流の身にとっては有り難い住居、恐らく私は此処で生涯を終えるに違いない。例え私
が京を執着して、恋々涙をこぼしたところで、所詮帰されることはあるまい、この僻遠
の地で果てるに違いない。
 「縦使魂見(山偏+見)を思ふとも、其の骨を燕に葬るを如にせん」は、魏の羊古(
示偏+古)の故事から案じた句で、羊古(示偏+古)は博学高徳の官吏だが、特に襄陽
にある硯山の風景を愛し、屡々之に登って日の没するも知らず置酒言詠したと云う。「
燕」は今の天津地方で、海にも近い。公は愛慕する都を硯山に例え、西陲の筑紫を燕に
準えたのであろう。
  − 実に人の運命は糾アザナえる綱で、吉凶禍福は宛にならぬから、卜ウラナって将来を相
たところで何になろう。
 
 以上長々と意を述べたが、一途に憐れむべきは斯く言う自分であろうかと、公五十年
の過去を語り、謫居の感想を述べ、愚痴もこぼしたし、憤りも漏らしたけれど、厳しい
自己批判を失わず、悽絶の語気、言々血涙の詩である。
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