108b 菅家後草〈叙意一百韻〉
 
 「傅が築は巌辺に藕し」。史記に記事がある。「傅巌の下に水あり。説エツ罪人に代わ
りて堤を築き藕す。殷の武丁夢みて、説を挙げて相となし、殷国大いに治る。傅説これ
なり」と。因みに荷ハスの実を蓮と云い、根を藕と云う。
 「范が舟は湖上に扁なり」。児島高徳の「天勾践を空しうすることなかれ、時に范蠡
無きにしもあらず」の、范蠡の故事である。越王勾践が呉王夫差に囲まれ会稽山で屈辱
的な降伏をするや、彼は呉に人質となること二年、帰国後は勾践を助けて臥薪嘗胆軍備
を整え、二十年後、夫差を姑蘇山に滅ぼし、勾践をして諸侯の覇者たらしめた。然るに
彼はやがて国を逃れ、海上斉に入って商人となった。勾践の性格が患難の時は一緒に仕
事が出来るが、仕事を成就すれば有能の者は危険視されて破滅させられることを察して
逃亡したのである。「飛鳥尽きて良弓蔵され、狡兎死して走狗烹らる」の名句は、この
事を云った彼の言である。
 
 「長沙、沙卑湿」。漢の賈誼の故事。二十三歳の若さで博士に任ぜられ、大中大夫に
越進し、孝文帝がこれを公卿に登用しようとした時、その躍進を嫉む終潅等の毀ソシりで、
長沙王の大傅タイフに左遷せられた。蒙求・史記・国語などに拠ると「誼すでに謫居し、長沙
は卑湿なれば、自ら傷悼しておもへらく、寿長きを得じ」とある。彼は博学にして達見、
文学者としても漢代に傑出している。「治安策」「過秦論」は特に有名である。
 「湘水、水淵(大冠+淵)巻(三水+巻(己のない巻)冠+糸)」。楚の屈原の故事。
屈原は懐王の左徒として王の寵愛が厚かったが、上官大夫が寵を争い、かつ能を嫉んで
讒言に及んだので、江南に貶オトせられた。其処で「懐沙之賦」を作り、石を抱いて泪羅
ベキラの水に身を投げた。後百年、賈誼が長沙に赴任の途中湖水を通過し、書を投じてこ
れを弔うたと云う。史記には別伝八十四に、屈原と賈誼とを並べて書いてある。
 
  − 下降に当たって、位は従二位に叙したけれど、役目は員外の帥だから、実権のあ
る筈もなく、いわば空位空官の身だが、有り難いことに、古馴染みの友人は食物を分け
て呉れるし、縁者は衣類の洗濯をして呉れる。これらの者の親切で、生きる苦悩を慰め
られているので、何故早く死なぬのかと呪う程の事もない。乏しいながら飯を頂けるの
も天地の御恩と感謝する気持ち故、冷酷に役人共が何と考えようと、お勝手になさいと
思っている。
 「故人は食を分ちて敢(口偏+敢)はしめ、親族は衣を把って前(三水+前)ふ」。
何分「門弟数百朝野に満つ」ことだから、此処の官人中にも門弟が居たろう。親族も居
たろう。新古今集十八に、公の歌として、
 
 つくしにも紫おふる野辺はあれど なき名悲しむ人ぞきこえぬ
 
とある。上の句は縁故者が居る意と、都に紫野があるように筑紫にも紫村があるとの意
を掛けている。和歌では、縁の者は居ても冤罪に同情して呉れる者は居ないと、かこっ
ておられるのに、詩では感謝しておられる。どちらも、その時の本心であろう。
 「陶甄」は陶器を造ることから、転じて人民を善導する役人に喩える。
 
(五)
荏苒青陽尽     荏苒ジンゼンとして青陽セイヤウ尽き
清和朱景妍     清和セイワ朱景シュケイ妍ケンなり
土風須漸漬     土風は須スベカらく漸漬ゼンシすべく
習俗擬相沿     習俗は相沿はんと擬ギす
苦味塩焼木     苦味は塩木を焼き
邪贏布当銭     邪贏ジャエイ、布ヌノ銭ゼニに当アつ
殺傷軽下手     殺傷軽く手を下し
群盗穏差肩     群盗穏やかに肩を差す
魚袋出垂釣     魚袋ギョタイは釣を垂るゝに出し
屏(竹冠+屏)篁換叩舷 屏(竹冠+屏)篁ヘイコウは舷を叩くに換ふ
貪婪興販米     貪婪タンラン販米ハンマイを興コウし
行濫貢官綿     行濫コウラン官綿を貢カウす
鮑肆方遺臭     鮑肆ホウシは方マサに臭シュウを遺ワスれ
琴声未改絃     琴声は未だ絃を改めず
与誰開口説     誰と与にか口を開いて説かん
唯独曲肱眠     唯独り肱を曲げて眠る
 
 感想は転じて、当地の卑習、官人の堕落に言及する。
  − 季節はやゝ進んで、春が過ぎ、初夏ともなると、南国の陽は長閑ノドカに、新緑は
美しく照り映える。自然は佳きかなである。されど人間の醜くさよ。郷に入っては郷に
従えと云うから、自分も段々にこの土地の習俗に慣れようとは思うのだが、厭らしいこ
とばかりで、中々馴染めない。
 此処では塩を作るにしても、「藻塩たく」風流な方法にはよらずに、木を燃やして作
る殺風景さであるから、苦味ニガリが強くて味悪く、また、唐織を買い占めてその間不当
な利を収める不都合もやる。一般の気質も殺伐で、人を斬る位は屁とも思わず、盗人の
大胆不敵さと来たら、馴れ馴れしく肩を組まんばかりに近寄って来ては盗んで行く。
 
 「苦味は塩木を焼き」。「藻塩たく」の語があって、古来多く歌に詠まれ物語にも書
かれて、風流なものとされていた。公もその情景を哀れ深いものに想像されていたのに、
この地方では、木を燃やして海水を煮詰めて作るので幻滅を感じたと云うのであろう。
しかし藻塩やくを、藻を焼いて塩を作ると考えるのは如何であろうか。塩を藻に湿めて、
これを垂れて、塩木で焼くのを云うのではないだろうかと、古人も疑っている。
 「邪贏、布銭に当つ」。この句は次のようなことを言ったものであろう。例えば唐物
を載せて唐船が太宰府に来着すると、その商人は鴻臚館に泊め置かれ、その旨が朝廷に
報告されるのだが、何分京と太宰府の間は海路にして三十日、陸路にして十七日を要し
たので、朝廷からの交易唐物使が太宰府に到着するまでの間に、府の官人や郭内の富豪
が争って唐物を買ったと云うことが歴史に見える。こんなことをして不当な、不正な利
を稼いでいたと云うことであろう。
 
  − 役人は如何かと言えば、金銀の魚袋を魚釣りの餌入れに代用し、車の屋形の覆い
竹は取り外して舷を叩くに用うるような粗暴さ、加うるに綱紀も紊ミダれていて、米の仲
買はする、官綿は盗んで租税に充てる等、私腹を肥やすに汲々としている。
 こんな非行陋習は、既に深く根ざし広く蔓延ハビコっているので、これを粛清すること
は不可能な程である。よって、見て忍び難いところだが、教化を断念し、独り部屋に肱
を曲げて眠り、習俗から眼を蓋おうと思う。
 
 「魚袋」は金銀を以て魚の形を作り、帯に懸けて飾りとするもの。貴賎によって差が
ある。
 「貪婪販米を興し、行濫官綿を貢す」。「興」は競り売りのこと、当時太宰府に米の
競りが行われていたことは、延喜式五十雑の部に見える。「興」の字一本「典」とある
が、後者を採れば、質シチに入れることになる。また、筑紫は綿の名産地で、その質が最
上であった事が、延喜式や三代実録に書いてある。「筑紫綿」の名は、綿の総称にされ
た位である。万葉集にも、観世音寺造営別当の沙弥満誓の歌として、「不知火シラヌヒの筑
紫の綿は身につけて いまだ着ねども暖けく見ゆ」とあって、上質が謳われており、続
日本紀には、「毎年、太宰府の綿廿万屯を運び、以て京師に輸す」とあって、多産を物
語っている。
 
 「鮑肆は方に臭を遺れ、琴声は未だ絃を改めず」。前句は孔子家語の「善人と居るは
芝蘭の室に居るが如し。久しくしてその香を聞かざるは即ち之と化するなり。不善人と
居るは鮑魚の肆に入るが如し。久しくしてその臭を聞かざるは、また之と化したるなり
」に拠ると考えられる。不善人と交わって久しいため、道徳意識が低下し、その悪徳た
るをも覚らず、これを改めることが出来ないのを言う。この句を「鮑肆は方ミチに臭を遺ス
つ」と訓ヨめば、魚屋が道路に生臭い汚水を撒き散らすことになるが、そのように解する
のは、前後如何であろう。通釈のように、太宰府官人の底知れぬ腐敗振りを述べたもの
と見たい。
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