108c 菅家後草〈叙意一百韻〉
 
 続日本紀中に、これよりも約五十年前の嘉祥二年に、滋野貞主が太宰府の政治の積弊
を痛斥した上書がある。「太宰府は諸蓄の輻輳、中外の関門なり。これに因り、有徳帥
弐となり、才良監典となる。若しその人無ければ、弁官式部を選び取る。頃年以来絶え
て行はれず。近ごろ飛語を得。云ふ、彼の吏、或は目を撃ち口を閉じ、避世の人に似た
り。恥を忘れ財を貪り、聚斂の吏と為る。府司国宰悲傷せざるはなし。若し此の如くに
して変へずんば、臍を噛むとも及ばじ」と。また、この詩より二年後の延喜三年の太政
官符には、「このごろ、賈估妄りに遠物を喜び、官物に謠(言偏のない謠+系)ヨらず、
私に市易を為す。太ハナハだ謂イハレなし。今より後、厳に禁遏を加へよ」とあるのを見れば、
下級官吏の汚職の無軌道振りは、公の当時に於ても目に余るものがあったと想像される。
 
(六)
欝蒸陰霖雨     欝蒸ウツジョウす、陰霖インリンの雨
晨炊断絶煙     晨炊シンスイは断絶の煙
魚観生竃釜     魚観ギョクワン竃釜サウフに生じ
蛙呪聒階甎     蛙呪アジュ階甎カイセンに聒カマビすし
野竪供蔬菜     野竪ヤジュ蔬菜を供し
廚児作薄亶(食偏+亶) 廚児チュウジ薄亶(食偏+亶)ハクセンを作る
痩同失雌鶴     痩せたることは雌を失へる鶴に同じく
飢類嚇雛鳶     飢えたることは雛を嚇す鳶に類す
壁堕防奔溜     壁堕ちて奔溜ホンリウを防ぎ
庭泥導濁涓     庭泥デイしては濁涓ダクケンを導く
紅輪晴後転     紅輪カウリン晴後に転じ
翠幕晩来搴(手の代わりに衣) 翠幕スイマク晩来バンライに搴(手の代わりに衣)カカぐ
遇境虚生白     境に遇うて虚キョ白ハクを生じ
遊淡暗入玄     遊淡イウダンして暗アン玄ゲンに入る
老君垂迹淡     老君は迹を垂るること淡
荘叟処身偏     荘叟サウソウは身を処すること偏なり
性莫乖常道     性は常の道に乖ソムくこと莫れ
宗当任自然     宗は当に自然に任すべし
殷勤斉物論     殷勤インギンなり、斉物論セイブツロン
洽恰寓言篇     洽恰カフカフたり、寓言篇グウゲンヘン
景致幽於夢     景致ケイチは夢より幽カスカなり
風情癖未痊     風情癖未だ痊イへず
文化何処落     文化は何れの処にか落つる
感緒此間牽     感緒は此の間に牽ヒかる
慰志憐馮衍     志を慰めては馮衍フエンを憐み
銷憂羨仲宣     憂を銷ケして仲宣チュウセンを羨む
詞拑触忌諱     詞は忌諱キキに触るゝに拑ツグみ
筆禿述麁癲     筆は麁癲ソテンを述ぶるに禿トクす
草得誰相視     草サウは誰にか相視アヒシメすを得ん
句無人共聯     句は人の共に聯する無し
思将臨紙写     思は将マサに紙に臨んで写さんとし
詠取著燈燃     詠は取って燈を著けて燃す
反覆何遺恨     反覆するも何ぞ恨を遺さん
辛酸是宿縁     辛酸是れ宿縁シュクエン
微々抛愛楽     微々愛楽を抛ナゲウち
漸々謝葷亶(月偏+亶) 漸々ゼンゼン葷亶(月偏+亶)クンセンに謝す
合掌帰依仏     合掌して仏に帰依キエし
廻心学習禅     心を廻メグらして禅を学習す
厭離今罪網     厭離エンリす、今の罪網ザイマウ
恭敬昔真筌     恭敬ギョウケイす、昔の真筌シンセン
皎潔空観月     皎潔カウケツなり、空観クウクワンの月
開敷妙法蓮     開敷カイフす、妙法ミャウハフの蓮レン
誓弘無誑語     誓弘セイグして誑語キョウゴ無ければ
福享不唐捐     福フク享ウくること唐捐タウエンならじ
 
 謫居での夏の景色、夏の生活に織り混ぜて、感想がそれからそれへと続く。
  − やがて五月に入ると梅雨降り続けて鬱陶しく、朝食の炊事も出来かねるようにな
る。何分、台所は水浸しになって、竈はおろか釜の中まで、目高や鰌ドヂャウが泳いでお
るし、蛙は階段の辺りで喧ヤカマしく鳴き立てる有様だから。
 たまさかに農家の子が雨を冒して野菜を運んで呉れると、薄粥を作って啜ススらせて呉
れる位なもの。されば、私は雌を失った鶴のように痩せこけ、雛を襲う鳶のようにひろ
ひろせざるを得ない。
 あちらでは、壁土が落ちて流れを防ぐので、其処は水が溜まって海のよう、こちらで
は、濁流滔々と云う物凄い有様だ。
 「魚観竃釜に生じ、蛙呪階甎に聒すし」は、「魚の竃釜に生ずるを観、蛙の階甎に聒
すしきを呪ふ」と、どちらが勝るか迷う。後者は久しく物を煮ないと、水が腐って釜中
にボウフラが生ずるの意である。「甑中塵を生ず、范史雲、釜中魚を生ず、范菜蕪」の
句もある。
 
  − 梅雨が上がって太陽が眩しいばかりに照り初めると、万物は蘇生の思いで元気付
く。やがて、夕陽が水城ミヅキの山に華やか没すると、翠の帷トバリは掲げられる。あゝこ
の時の清々しさ。かゝる景に遭えば、自ずから憂を忘れて生きる悦びに浸り、或いは、
雑談に打ち興じて漫ソゾろに話中の人となるのである。
 かの老子はその性虚淡、荘子は偏屈人。老子は、人の性は常の道から背いてはいけな
い、あれこれ作為する愚を止めて、無為自然に任すことが肝要だと教えたし、荘子は、
その斉物篇・寓言篇中に、善悪美醜と云うも造物者から見れば一切平等一切同価、生死と
云い栄達と云うも、所詮夢に過ぎぬ、この悟りを持ったら無憂無悲、安楽に成れると、
懇切に説いている。良き言ではある。心牽かれる。
 今見る自然の景色は、荘子の言う夢のように幽玄だけれど、私には夢とは観じ得られ
ない。却って都にあった時のように、この美景に対して詩歌管弦の遊びなど催したらど
んなに楽しかろうなどと、とても叶わぬ欲望を起こして、依然として物の哀れを催すの
は、心苦しいことである。
 
 「虚、白を生ず」。荘子人間篇に「虚室白を生ず」とある。隙間に太陽の光線が差し
込んで白いことで、自己を空しくする者には幸福があることに喩えられる。
 「老君は迹を垂るゝこと淡・・・・・性は常の道に乖くこと莫れ、宗は当に自然に任すべし
」。この三句は老子の性格と所説を述べている。老子は姓は李、名は耳。ほぼ孔子と同
じ時代に周に出たと伝えるけれど、その実在を疑う者もある位、その生涯は明らかでな
い。周の衰えるを見て、西に去って終わる所を知らぬと云う。この一生既に「淡」であ
る。彼が西の関を出る時、関令尹喜の請うまゝに、道徳経上下五千余言を遺した。彼の
哲学は虚無を根本義とし、宇宙の万物を悉く虚無から出た虚無に帰ると見る。彼の有名
な語に、「道の道とすべきは常の道にはあらず」とあって、人の作為したものは自然の
理に背くと言い、孔子の提唱する仁義礼楽の如きは偽として排斥すべきものとした。人
間はあらゆる人工形式を避けて、謙虚・無私・不滅不尽の自然に帰れと教えた。 
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