108a 菅家後草〈叙意一百韻〉
 
  − 斯くして五十有余の駅亭に泊まりを重ね、三千里に半ばする道中を辿タドって、漸
く太宰府の南楼の下、右郭の辺ホトリにある南館に車駕を留トドめた。
 初めて見る西府は、規模こそやや小さいが、京の都にも似て、賑やかさも格別だが、
所在の人は私を見ようとして、道を埋めてひしめき合っているので、私は嘔吐を催すば
かりに胸悪くなり、かつ身心の甚だしい疲労のために、車から降ろされても足も立たず、
人々の憎悪と好奇の眼の前に曝されては、身は刻まれるより苦しく、消入るばかりに心
辛いことであった。
 「駕を税く南楼の下、車を停む右郭の辺」。「南楼」は配所の南館の近くにあった楼。
「右郭」は当時の太宰府市外の右京とも云うべき所、当時の太宰府は、今の都府楼趾を
中心に、方四町に亘って正殿以下の諸司百寮が整然と布置し、町は南大門から真っ直ぐ
に北に向かって大路が走り、左右の両郭に区分される。東が左郭、西が右郭である。配
所の南館はその右郭に在ったことが知られ、今の榎寺は大体その地であろう。更に左右
両郭は南北に走る線によって、各々十二坊に区分され、これが一条から二十二条までの
東西の道路によって、正方形に区切られていたと云う。とにかく、東西二十四坊、南北
二十二条の大城郭であったから、さながら平城平安両教の模写みたいであったと思われ
る。
 当時の西府の賑やかな様は、この詩より三十年前の続日本紀にも、「此の府は人物股
繁、天下の一都会なり」とあるによっても窺われる。以上によって、次の「宛然として
小閣を開き、覩る者遐阡に満つ」の句も、自ずから分明であろう。「小閣」は小さい宮
殿。「遐阡」は遥かな道路のこと。因みに京都と太宰府の間は、海路にして三十日、陸
路にして十七日を要したとあるから、公の道中の大体の日数を推定することが出来る。
 
  − 斯くして南館に起居することになったが、幾晩寝ても馴染めずに苦しい想いをし
た。それでも時折、土着の老人がやって来て、素僕な調子で昔話しを聞かして呉れるこ
とがある。その時だけはこの住居の物憂さも忘れるのであった。
 「信宿」は、左伝に「凡そ師は一宿を舎と為し、再宿を信と為し、信を過ぐるを次と
為す」とあるが、茲は前後から察して、南館で寝泊まりするようになったことであろう。
 「倒懸」は、身体を倒し間に吊るし上げられるような甚だしい苦しみ。
  − 災害は逃るゝ術もなく、このような身の上にはなったが、根も無い汚名は必ず晴
るる時があろう。昔から、邪は正に克った例タメシはないから、そのように信ずるのであ
る。しかし、悪盛んなる時は天に克つとか、実もないことを真しやかに捏造して、私を
この憂き目に陥れたのである。
 
(三)
移徒空官舎     移り徒ウツる空官舎
修営朽采椽     修め営む朽采椽キュウサイテン
荒涼多失道     荒涼カウリョウとして多く道を失ひ
広袤少盈廛     広袤クワウバウ廛テンに盈ミつること少マレなり
井壅堆沙甃     井壅フサガって沙を堆ウヅダカくして甃イシダタみ
籬疎割竹編     籬マガキ疎にして竹を割って編む
陳根葵一畝     陳根チンコンは葵アホヒ一畝
斑蘚石弧拳     斑蘚ハンセンは石弧拳コケン
物色留依旧     物色は留まって旧に依り
人居就不悛     人居は就いて悛アラタまらず
 
  − こうして長く空巣になっていた南館に移り住むことになり、腐った垂木を修理す
るなどして、且且カツガツ住めるようにはしたが、邸内は荒れ果てて、馬道メドウなども何処
にあるやら判らず、泉殿・釣殿なども、殆ど形がない。井戸は砂に埋もれて石が乗っ掛か
っているし、垣根は大半破れているのを、白太夫や味酒安行が竹を割って編んだ。
 葵の古根は野方図ノホウヅに蔓延ハビコり、苔むした石は、雑草の中から頭だけぽつんと出
している。これでは少々手入れをしても整理は就かぬので、放っておると、相変わらず
の寂れ果てた有様である。
 
 「荒涼として多く道を失ひ、広袤廛に盈つること少なり」。「広袤」は東西南北。「
廛」は居宅。この二句によって見れば、元は紫宸殿風の相当の規模であったものが、今
では廊ワタドノ・馬道なども崩れ落ち、泉殿・釣殿・車宿などが殆ど廃虚となった様子が窺わ
れる。筑前志の著者の説のように、南館が外国の使節を接待する宿であってみれば、そ
れ位の規模は当然であろう。大陸では先年から唐末の動乱のこととて、最近使節の来朝
も唐船の入津もなくて荒れていたと想像される。先の「楽天が北窓三友の詩を読む」の
中に「官舎三間白茅茨」とあったが、恐らく寝殿の部分だけを修理して、住居にされた
からであろう。
 
(四)
随時雖褊切     時に随って褊切ヘンセツなりと雖も
恕己稍安便     己を恕ジョして稍々ショウショウ安便アンビンなり
同病求朋友     病を同じうして朋友を求め
助憂問古先     憂を助けて古先コセンを問ふ
才能終蹇剥     才能終に蹇剥ケンハク
富貴本屯(之繞+屯)亶(之繞+亶) 富貴本と屯(之繞+屯)亶(之繞+亶)チュンテン
傅築巌辺藕     傅フが築チクは巌辺ガンペンに藕グウし
范舟湖上扁     范ハンが舟は湖上に扁ヘンなり
長沙沙卑湿     長沙チャウサ、沙スナ卑湿ヒシツ
湘水水淵(大冠+淵)巻(三水+巻(己のない巻)冠+糸) 湘水シャウスイ、水ミヅ淵(大
          冠+淵)巻(三水+巻(己のない巻)冠+糸)インワン
爵我空崇品     我を爵して空しく品を崇タカくす
官誰只備員     誰をか官カンす、只員に備ふ
故人分食敢(口偏+敢) 故人は食を分ちて敢(口偏+敢)クラはしめ
親族把衣前(三水+前) 親族は衣を把トって前(三水+前)アラふ
既慰生之苦     既に生の苦を慰む
何嫌死不瑞(之繞の瑞) 何ぞ嫌はん、死の瑞(之繞の瑞)スミヤかならざるを
薔(草冠のない薔)興(興冠+林冠+大冠+火)由造化 薔(草冠のない薔)興(興冠
          +林冠+大冠+火)ショウサンは造化ゾウクワに由る
忖度委陶甄     忖度ソンタクは陶甄タウケンに委す
 
 これから暫くの間、配所での感想が続く。
  − 此処に住居するようになってからは、時折は怒りっぽく苛立つことがあるが、ま
あまあと吾と吾を宥ナダめて気分を鎮めることにしている。
 同病相憐れむとか、私のように愁に沈んでいる者は、自ずから先人中の同じ境遇の者
を求めて自ら慰めるものである。
 古来、才能があるのに騏足キソクを断たれるとか、富貴の身でもやがて非運に際会すると
云うような例は、乏しくはない。彼の傅説フエツは、後に武丁に用いられて大臣となり善政
を布いた賢相であるが、一時は罪人に代わって堤防工事の土方をしていたこともある。
越(中国)の范蠡は、勾践を助けて会稽の恥を雪ぎ覇業を成さしめた賢臣だが、やがて
は舟に乗って国外に逃亡した。また、漢の賈誼は、不出世の英才であったが、誣シいられ
て長沙に流されたし、楚の屈原は、清節であったのに讒言せられて湘水に投身自殺した
のであった。
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