05a 失脚・左遷
 
〈左遷〉
 道真公は寛平四年(892)正月に従四位下,年末に左京大夫を兼ね,翌年二月参議に任
じて式部大輔タイフを兼ね,続いて左大弁に転じ,敦仁アツギミ親王(後の醍醐天皇)立太子
に当たって春宮亮トウグウノスケを兼ねました。
 このとき,左大臣源融トオル,右大臣藤原良世ヨシヨ,大納言源能有ヨシアリ,同光,中納言藤
原時平以下,多くの参議がありました。宇多天皇はこれらのものと相談せず,参議にな
ったばかりの道真公一人に諮ハカって事を決しました。これについて,先に入内した基経
の女温子が皇子を産む以前,若年の時平が権勢を獲得する以前にと云う対藤原氏の配慮
があったと観られています。しかも宇多天皇には一段と慎重な配慮を要する多くの親王
や,皇族出身の賜姓シセイ源氏が周囲にありました。敦仁親王は第一皇子でしたが宇多天皇
が臣籍にあった時代に生まれ,かつては源維城コレザネと云う名でした。こうした状況の中
においては,学者・文人出身の官僚として何れの側にも属さず,剛直な道真公だけが機
密のことを諮問できる人物でした。天皇はこの道真公に諮って,皇位継承問題がこじれ
て表面化する以前に,事を決着させたと云われます。
 
 その後,道真公は寛平六年遣唐大使に任ぜられ,副使は紀長谷雄キノハセオでしたが,九月
道真公が提出した遣唐使の進止を論議して欲しいとの奏状により,中国唐王朝の衰微が
はっきりしてきたこと,往復の危険とを勘案し,派遣中止となりました。これは,文化
史上有名な事件です。この年の末には道真公は侍従を兼ね,翌年十月従三位中納言にな
りました。ときに五十一歳,父祖も三位まで昇りましたが中納言に任じたことはなく,
ここから父祖を越える栄進が始まりました。やがて寛平九年六月権大納言ゴンダイナゴンに
任じて右大将を兼ね,同じときに藤原時平は大納言兼左大将に任じ,時平と道真公が並
んで群臣の上首に立つ形が始まりました。
 翌七月宇多天皇は敦仁親王に譲位して醍醐天皇の時代となりました。このとき時平と
道真公は並んで正三位となり,翌寛平十年八月に改元して昌泰ショウタイ元年となりました
が,その頃,宇多天皇が譲位のとき,新帝への上奏と勅命の旨達は全て時平・道真公両
人を経るようにと命じたことを楯にとって,権大納言源光以下の納言が,政務を放棄す
る事件が起きました。これは宇多上皇の真意釈明によって収まったようですが,藤原氏
嫡流の時平はともかく,道真公の異例の栄進に対する反発は,次第に形を執り始めるよ
うになりました。
 昌泰二年(899)二月時平は左大臣兼左大将,道真公は右大臣兼右大将に任じ,翌月道
真公の嫡室島田宣来子は五十歳の賀に従五位下を授けられて東五条の自邸に勅使を迎え,
宇多上皇も行幸しました。次いで昌泰三年八月道真公は自分の詩文を集めた『菅家文草
カンケブンソウ』十二巻に,父是善の『菅相公集』十巻,祖父清公の『菅家集』六巻を添えて
天皇に献じました。この頃が得意の絶頂でした。同じ年十月,ときの文章博士三善清行
に書を送り,「明年は辛酉で変革にあたるから諸事慎重であるように。貴下は学者から
出身して大臣となり、寵栄は吉備真備キビノマキビのほか並ぶものがない。願わくは止足シソク
の分を知って退隠し、後半生を安穏に送るように」と忠告しています。
 
 明くる昌泰四年正月七日,時平と道真公は共に従二位に進みましたが,その月の二十
五日,道真公は突如として太宰権帥ダザイノゴンノソツに左遷されました。『政治要略』に伝
えられるそのときの宣命センミョウに拠りますと,「寒門より取り立てられて大臣になったの
に知足の分を知らず、専権の心を以て前上皇を欺き、廃立を行って父子の慈を離間し、
兄弟の愛を破ろうとする」とあります。父子とは宇多先帝と醍醐天皇で,兄弟とは醍醐
天皇と皇弟斉世トキヨ親王を指しています。道真公の女が斉世親王の室になっているところ
から,親王の即位を図ったと云うもので,破局は急転直下,道真公の身を襲うことにな
りました。
 
 前述のとおり,蔵人頭に起用されてから道真公の果たした役目は,藤原氏の主流を後
ろ盾にしながら,有力な皇親,賜姓源氏の反発を抑えようとする宇多天皇の政略の遂行
でした。彼等の天皇に対する不満が道真公に転嫁され,道真公一人が悪者にされる傾向
は,その立身の当初からあったのです。醍醐天皇が即位したとき,源光以下の納言等が
政務を放棄した事件など,その現れです。基経,時平と続いた藤原氏の主流と道真公の
間は,初めは寧ろ友好的でした。阿衡の紛議のとき,基経に対して道真公が行った直言
も,相互に信頼感がなければ出来ることではありませんでした。寛平五年に道真公が参
議に任じたとき,時平は鄭テイ州の玉帯を贈って栄進を祝しているのです。
 しかし宇多上皇の信頼が増幅するにつれ,事態は次第に変化しました。女子三人のう
ち,衍子ヒロコは宇多天皇の女御ニョウゴであり,寧子ヤスコは後宮の女官である尚侍(典侍とも
云う)となり,もう一人は皇弟斉世親王の室となって後の源英明ヒデアキを産んでいます。
これはどのような理由であれ,道真公が儒門の出でありながら藤原氏主流の真似をして
いると云われても,致し方のないことでした。
 それに時平の同母弟である忠平は,成長するにつれて兄とは別の道を歩み始め,時平
が醍醐天皇の側近であるのに対し,宇多上皇を取り巻く廷臣の群に参加しました。上皇
は道真公が右大臣になった昌泰二年十月,落飾して法皇となりましたが,忠平は法皇側
近中の貴種として,次第に将来を嘱望され始めたと観られています。そのとき,道真公
は法皇に最も近い廷臣中の第一人者として,右大臣の地位にありました。
 事態がこうなりますと,醍醐天皇を擁して政権を握る時平に執り,道真公は良き協力
者であるどころか,反対に排除すべき最大の政敵に転化しました。法皇の信頼が幾ら大
きくても,有力な皇親・賜姓源氏に加えて,時平と云う藤原氏の主流を敵に廻したとき,
道真公の破局は急速に訪れたと観られています。
 
 扇面北野天神縁起絵に拠りますと,道真公の失脚を巡って,醍醐天皇の侍読で文章博
士・参議に進んだ藤原菅根スガネが,学者文人としての嫉ソネみから仲間を語らい,時平の
意を迎えて呪詛ジュヒした,と伝えます。道真公は筑紫下向に当たり,自邸の梅に向かっ
て「こち吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな」と詠んだと伝えます。

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