05 失脚・左遷
失脚・左遷
参考:平凡社発行「菅原道真」
〈宇多天皇と道真公〉
後に「延喜エンギの聖王」と呼ばれた醍醐ダイゴ天皇は,宇多ウダ天皇の第一皇子です。
宇多天皇が譲位に当たって醍醐天皇に与えた『寛平御遺誡カンピョウノゴユイカイ』に拠ります
と,宇多天皇は寛平五年(893)醍醐天皇を皇子に立てましたとき,道真公一人だけに相
談し,決定したとあります。これは道真公に対する宇多天皇の信任の厚さもさることな
がら,背後に複雑な政治情勢があったためと観られています。
これより先,元慶ガンギョウ八年(884)陽成ヨウゼイ天皇が藤原基経モトツネの術策によって廃
され,陽成天皇の大叔父に当たる光孝コウコウ天皇が即位しました。そのとき基経の処遇を
定める資料として,所道の博士等に太政大臣の職掌についての意見を徴したことがあり
ました。当時,文章モンジョウ博士の道真公は『職員シキイン令義解リョウノギゲ』を引用して,太
政大臣は天皇の師に相応しい人物を任ずると云うだけで,特定の職掌はないとの正論を
述べました。これは天皇の意に反するものであったらしいのです。
太政大臣基経の推戴によって,図らずも皇位に就いた天皇は,基経に大政を委ねよう
と考えていましたので,道真公以外の博士や助教等の曖昧な答申を採用し,後の関白カン
パクに当たる権限を基経に与えました。道真公が仁和二年(886)式部少輔ショウユウ,文章博
士から讃岐守に転出した背後に,前述の直言が後を引いていたと観られています。そし
て公が讃岐に赴任した翌年八月,光孝天皇は病篤く,基経の計らいにより臣籍に降下し
ていました第七皇子定省サダミを親王に復し,次いで皇太子とし,天皇崩御によって即位
しましたのが宇多天皇です。その後基経に「万機巨細コサイを関アズカり白モウせ」との詔が発
せられ,これが関白の初めとなりました。
この詔が発せられたのは十一月でしたが,その翌月当時の慣例により基経が辞退の上
表をしますと,それに応えて重ねて就任を求めた勅書の中に,「宜しく阿衡アコウの任を以
て卿の任となすべし」との表現のあったところから,有名な阿衡の紛議が起こりました。
阿衡とは中国古王朝の殷インの三公の官名で,それが位のみあって職掌がないと云うこと
から,基経は自邸に篭もって政務を渋滞させ,勅書の執筆者文章博士橘広相の処罰を求
めました。
翌年六月,天皇は阿衡と形容したのは本意に背く文飾であったとの詔を発しましたが,
紛糾は収まらず,その年の十月,基経の女温子の入内ジュダイがあって漸く落着し,広相
の罪も不問に付されたようです。このとき讃岐に在った道真公は,父是善の門下であっ
た橘広相が渦中の人であったことから,この紛議に深い関心を持ち,遂に意を決して京
に戻り,基経に長文の意見書を提出しました。その時期は明白ではなく,紛議落着の目
途が着いてからのようでもあると云いますが,学者・文人としての広相の立場を擁護し,
併せて紛議を延引さすのは藤原氏のために良くないと云う,堂々たる内容の発言でした。
こうした道真公の行動と立論は,基経は素モトより宇多天皇にとっても印象深いものが
あった筈です。寛平二年の春,道真公は讃岐守の任を終えて帰京しましたが,翌年正月
基経が死去しますと,翌月道真公は蔵人頭クロウドノトウに任じ,宇多天皇に近侍することに
なりました。このことは,天皇の道真公に対する期待は,当初から大きかったことが窺
われます。
一旦臣籍に在って源氏を名乗っていました宇多天皇を親王に戻し,立太子から即位へ
と薦めたのは,表向きに基経の画策によるとされていますが,実質は天皇の養母であり,
従一位尚侍ショウジとして後宮コウキュウの実力者であった基経の妹の藤原淑子の意志によると
されます。夫である右大臣藤原氏宗との間に子女のなかった淑子は,後に光孝天皇とな
った時康親王から第七皇子の定省王(後の宇多天皇)を貰い受け,猶子ユウシとして幼いと
きから手許において養育していました。陽成天皇廃位のときも,既に正三位典侍テンジと
して後宮を牛耳っていた淑子の協力なしに,基経の計画は実現出来なかったと観られて
います。光孝天皇即位の後も,その跡を宇多天皇の即位に向けて事が運ばれましたのは,
基経の女温子の入内を条件に,淑子が基経と画策した結果と云います。
光孝天皇が崩じたとき,尚侍の淑子は直ちに皇位の印シルシの剣璽ケンジを奉持し,脱兎の
ような素早さで麗景殿に参入し,定省親王に奉呈したと云います。尚侍が自らその役を
するのは異例の処置なのです。しかも宇多天皇は,践祚センソの翌日に内裏の宣耀殿センヨウデ
ンを出て,内裏の東に在った雅院に移りました。それから三年半後,基経が死去した翌
月,道真公を蔵人頭に任ずる直前に,天皇は漸く内裏の清涼殿に移って日常の居所とさ
れました。
宇多天皇にとって基経は,淑子と共に大事に後ろ盾でした。基経が阿衡の紛議を起こ
したのも,勅書を代書した文章博士・参議の橘広相が女義子を宇多天皇の女御ニョウゴとし
て入内させており,天皇の無二の謀臣であったことへの反発でした。天皇にとりまして
は藤原氏よりも,天皇を取り巻く諸親王の方が,遥かに政治的な警戒を要しました。こ
の時点において,皇位は仁明→文徳→清和→陽成と云う嫡系から,光孝→宇多と云う傍
系に移りましたが,基経の術策によって退位を余儀なくされた陽成上皇を含めて,清和
天皇には十人の皇子がありました。一度臣籍に降下していた宇多天皇に比べ,これら諸
親王の方が皇位継承の正統性を主張出来る立場にありました。
こうした状況の中において,寛平二年五月に橘広相が死去し,翌年正月に基経が死去
しました。その翌日に宇多天皇が内裏の外の雅院から内裏の清涼殿に移ったのは,無二
の近臣と強力な後ろ盾を続いて失った天皇が,それまで遠慮なり周辺への顧慮を捨て,
自ら政治の衝に当たろうとする決意の表明であったと云えましょう。その直後になされ
た道真公の蔵人頭への登用は,明らかにそのための布石の一つでした。
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