03a 道真公の生い立ち
 
〈三代の学と道真公〉
 古人の四男で道真公の祖父に当たる清公キヨキミは,後に従三位文章モンジョウ博士まで進み,
公卿クギョウに列せられました。晩年は老病のため行歩コウホ艱難カンナンのため,牛車ギッシャに乗
って,南殿ナデン(紫宸殿)の大庭オオバの梨の木の下まで到ることを許されました。奈良
時代の土師氏からは,想像も出来ない破格の栄進でした。
 清公は延暦エンリャク三年(784)十五歳のとき,皇太弟早良サワラ親王に近時しました。学力
を認められての抜擢でしたでしょう。翌年十二月,そのとき古人は既に故人になってい
ましたが,桓武天皇は古人の侍読として仕えた労を労ネギラい,四人の子息に衣粮イリョウを
給したと『続日本紀』は伝えております。また仁明ニンミョウ天皇(在位833〜850)承和ジョウ
ワ九年(842)清公の死去に,『続日本紀』は略伝を載せていますが,それには父の古人
は儒行は世に聞こえたが家に余財なく,諸児は寒苦のうちに勉学に励んだとしています。
古人は自ら創始した菅原氏の将来を四児の学問に託し,そのうち清公が見事にこれに応
えたことになります。
 古人の菅原改姓の翌年に,秋篠を称することを許された安人ヤスヒトは清公より二十歳年
長で,弘仁コウニン六年(815)従三位に進み,参議春宮大夫トウグウダイフまでなりました。同
じ土師氏の後裔として,清公より早く公卿に列せられましたが,清公は終世参議には任
ぜず,死に至るまで文章博士の地位にあり,"当時の詩伯シハク"として菅原氏の名を高めま
した。それは延暦八年二十歳で文章生となり,同十七年秀才の策試に合格して大学少允
ショウジョウとなり,同二十三年遣唐使判官として入唐した経歴に発しているのです。
 弘仁十一年,今後は文章生に良家の子弟を採用すると発令されたとき,清公より二十
歳近く年少の桑原腹赤は「游夏ユウカの徒(儒家)はもと卿相(公家や大臣)の子に非ず、
楊馬の輩は寒素の門より出でたり、高才未だ必ずしも貴種ならず、貴種未だ必ずしも高
才ならず、且つ夫れ王者の人を用ふるは唯才を是れ貴ぶ」と云って反対したことが『本
朝文粋ホンチョウモンズイ』に見えます。桓武新政に始まる平安初期と云う時期は,土師氏が祖
業と訣別し,改姓によって頽勢の挽回を図ったことが示していますように,律令が整備
されて百年の歳月が経過し,旧来の氏族の体制は完全に過去のものとなりました。大陸
の文物をより多く吸収し,学問を修めたものが体制内において優位に立ち得ると云う,
ある種の流動現象が貴族社会の内部には確実に存在していたのです。清公はそうした時
代の体現者の一人と云えましょう。
 嵯峨サガ天皇(在位809〜823)は弘仁九年,天下の儀式,男女の衣服,五位以上の位記
を唐風に改め,宮殿・院堂・門閣の名も唐風に変え,新しい額を掲げさせました。これ
を推進したのはこのとき式部少輔ショウユウの清公と云い,彼は『令義解リョウノギゲ』『凌雲集
リョウウンシュウ』『文華秀麗集』など,この時期の公的な編纂物には何れも撰者として名を連
ねています。奈良時代末期に土師氏であることを止めた新興の菅原氏は,この清公によ
って貴族社会内部に確実な地位を築くことが出来ました。
 そして清公にも四子ありましたが,三子の善主ヨシヌシと四子の是善コレヨシが優れていまし
た。善主は文章生から弾正ダンジョウ少忠となり,承和五年(838)父と同じく遣唐使判官
として入唐しました。しかし帰国後は学者の道を進まず,仁寿ニンジュ二年(852)勘解由
カゲユ次官・従五位下に在って死去,五十歳でした。清公の衣鉢は是善が次ぐことになり,
道真公はその三子です。
 是善は父に似て幼少より聡明で,弘仁十三年十一歳のとき殿上に召され,嵯峨天皇の
前において書を読み,詩を賦しました。承和二年二十二歳で文章得業生,同六年に策試
(方略試)に及第し,大学少允に任じています。以後父の跡を追うように累進して文章
博士,春宮学士となり,諸官を歴任しましたが,清和セイワ天皇(在位858〜876)貞観十四
年(872)六十一歳で参議に任じ,元慶ガンギョウ三年(879)従三位となり,翌年六十九歳
で死去しました。
 『貞観格式ジョウガンキャクシキ』『文徳実録モントクジツロク』の編修にも参与した是善は,学者・
文人として多くの門弟を養成しましたが,父清公の任じなかった参議となり,父よりは
政治の実務と深く関わっていました。そして,こうした父と祖父を持って菅原の家に生
を受けた道真公は,生涯歩むべき道は最初から定まっていたと云って良いでしょう。
 
 道真ミチザネ公の生誕は祖父清公の死後三年を経た承和十二年(845),父是善三十四歳
のときでした。二人の兄は名も伝わらず,事績も判りません。元慶五年の道真公の詩に
「我に父母なく,兄弟なし」とあり,早く死去したらしい。道真公の幼時は病弱で,母
親が観音に祈誓して,漸く一命を取り留めたことがありました。貞観ジョウガン十四年母親
は死に臨んで,道真公に俸禄の上分ジョウブンを割サき,自分の立てた観音像造立の願を果
たすよう遺言したと云います。
 道真公の少年時の逸話に,十一歳のとき詩を詠んだと云うのが有名です。道真公自身
の編集した『菅家文草カンケブンソウ』の巻頭に,「月夜に梅華を見る」と云う題で収録され,
事実と観られています。その注に「斉衡サイコウ二年乙亥(855)時に十一、厳君、田進士を
してこれを試みしむ。予始めて詩を言ふ。故に篇首に載す」とあります。厳君とは父是
善,田進士デンシンシは父の弟子の文章生島田忠臣のことで,その女は後に道真公の妻にな
っています。道真公は恵まれた環境の下,幼時から才能を現していました。

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