04 官僚道真公 − 栄進への道程
 
          官僚道真公 − 栄進への道程
 
                         参考:平凡社発行「菅原道真」
 
〈文章生から文章博士へ〉
 道真公の祖父清公キヨキミが,方一丈の書斎に続く廊下を以て門人の講学の所としたこと
から,清公以来の菅原氏の私塾は「菅家廊下」と呼ばれました。その出身で文章モンジョウ
生の試験に合格した秀才・進士は百人に近く,世間においてはこれを竜門(登竜門)と
呼んだと云います。道真公は清公,是善と続いた菅家廊下の継嗣として,初学のときか
ら重大な責任を負わされていました。このことが,道真公の生涯を決定する重要な因子
になっていたと考えられます。
 『菅家文草』には,天安テンアン二年(858),十四歳のときの七言律詩「臘月独興」と云
うのが載せられています。その中に,「氷、水面に封じて聞くに浪なく、雪、林頭に点
じて見るに花あり」と云う聯句レンクがあります。これが秀句として世の話題になり,後に
『和漢朗詠集』に採録されました。天禀テンピン(天性)の才能は少年期より鋭く現れてい
ました。家の学問に対する責任感は,これに一層の拍車を掛けさせたことでしょう。
 貞観ジョウガン元年(859)十五歳のとき元服し,文章生を目指しての勉学の中において,
父の是善は毎日のように詩作を課しました。試験は貞観四年四月十四日,五月十七日に
及第と決まり,文章生に補せられました。祖父清公が二十歳であったのに比べ,二歳若
かったのです。当時は文章生二十人のうち,学力優等のもの二人を選んで,文章得業生
として最高の国家試験である策試を受ける候補者としましたが,道真公は同九年正月文
章得業生となり,翌月正六位下下野権少掾シモツケノゴンノショウジョウに任じました。これは掾の
職に伴う俸禄を受けるだけで実務はなく,専ら勉学に専心することになっていました。
 得業生になりますと,七年のうちに策試を受けることになっていました。道真公は,
貞観十二年三月二十三日に試を奉じ,五月十七日に及第しました。策試の試験官を問頭
の博士と呼びますが,このときの試験官は学者として名の高い少内記都良香ミヤコノヨシカでし
た。道真公の成績は中上でしたが,策試は得業生となって受験すること自体,学者とし
て名誉なことでした。この策試は誰でも応募できると云うものではなく,天皇の宣旨に
よって受験を許可され,問頭の博士が指定されるのです。
 成績の判定は最も厳格で,律令制度の完備した八世紀初頭から,十世紀の三十年代ま
でに六十五名より及第していません。問頭の博士の判定文は峻烈で,殆ど中上の評価よ
り与えられず,道真公の父の是善も中上でしたし,道真公より二歳年少の「意見封事イケン
フウジ」で有名な三善清行は,丁第であったと伝えます。上を上中下に分け,その次を中
上としますと,丁も甲から数えて四番目であり,道真公と同程度の評点であったと云え
ましょう。
 
 『菅家文草』は昌泰ショウタイ三年(900)道真公が勢威絶頂のとき,自身の詩文を編集し
たもの
ですが,それに拠りますと,公は元服した十五歳のときから策試に合格した年までに,
随分多くの人のために仏事法会の願文や,朝廷に提出する上表文の代作をしています。
この種の文章は,能文の士に依嘱するのが通例ですので,道真公は策試に合格する以前,
若年にも拘わらず,学力と文才は多くの人の認めるところであったことが察っしられま
す。中でも二十二歳のとき,円仁エンニンの『顕揚大戒輪』の序を起草したのは,儒教だけ
ではなく,仏教にも教養の深かったことを示しています。これは,慈覚大師円仁が師最
澄の『顕戒輪』の主旨を祖述した草稿を,弟子の安慧アンエが整理し,序文を道真公の父是
善に委嘱し,是善が道真公に安慧の名で執筆させたと云います。
 
 策試に及第した道真公は,翌貞観十三年玄蕃助ゲンバノスケから少内記に任じました。内
記は天皇に近侍して詔勅の案文アンモンを起草する役で,抜群の文章力を要求されました。
この時期には特に渤海ボッカイ国との往来が頻繁で,屡々使者が来朝しました。そのような
ときの外交文書の起草は大役であり,菅原是善を始め,春澄善縄ハルズミノヨシタダ,大江音人
オオエノオトンド,都良香,三善清行など,有名な学者は皆この任に就いています。
 道真公も貞観十四年の渤海国使の来朝に応接していますが,同十六年には従五位とな
って兵部少輔ショウユウに転じました。その任に当たること三年,貞観十九年正月に式部少輔
となり,十月文章博士を兼ねることになりました。
[次へ進んで下さい]