[仏教] |
[臨済宗の教義] 参考:(財)仏教伝道協会「日本の仏教宗派」 もともと、仏陀の教えも禅の初祖とされる達磨の法門も、じつは義玄と同じ大悟を坐 りとしている。禅の基本的な考え方は、大乗小乗の特色とされる「なやみはさとりの種 (煩悩即菩提)」や「なやみを断ち切らないで、安らぎをつかむ(不断煩悩得涅槃)」 という考え方を出るものではない。 中国で発生した禅宗の特色は、そうした大乗小乗の教義を、己が身に引き受けて具体 的な力とする方法を見つけだしたところにある。 たとおば初祖達磨はのちに二祖となる 元来は、戒律や坐禅の修行がそうした役目を負うていたはずであるが、インドと中国 では、風俗習慣もちがい、文明の歴史もちがっていた。インド仏教と同じ戒律や坐禅を 、完全に実行することは困難だった。まして完全な悟りを得ることは、ほとんど絶望で ある。達磨にはじまる禅宗の発生は、かつての大乗小乗の外に、別の新しい思想を加え たものではない。大乗が大乗であるための、具体的・実践的で実現可能な悟りの方法を確 立したところに、この派の仏教の歴史的魅力があった。 達磨が慧可に不安な心を差し出せと求めたのは、つかまえどころのない空の論理を知 らせるためでもなければ、単なる皮肉でもなかった。達磨は実際につかまえどころのな い心そのものを差し出させたのである。二人の問答は、そんな具体的方法の事例の一つ にほかならない。六祖と呼ばれる曹渓慧能もまた「文字を知らず、仏法を 慧能の主張をさらに前進させる馬祖道一は、日常の一挙一動のすべてが道の働きであ るとし、「平常心これ道」を説く。「平常心これ道」という発想は、道を高遠な理想に 求めず、日常の衣・食・住のところにあるとする中国古来の思想から出たものであり、中 国民族の宗教としての禅の本質をあらわすといえる。 臨済義玄は馬祖の四世である。現実の個人の生ま身の自由と価値を説くことは、この 人において頂点に達する。かれは既成の哲学も倫理もすべて閑人の道楽にすぎぬとし、 人を縛る枷のようであるとさえいう。その最大のものが仏祖である。仏祖の言葉が経典 にほかならない。臨済は経典を不浄を払う故紙にすぎないとし、「仏を殺し祖を殺して はじめて解脱することができる」とする。この句くらい、臨済の本領を語るものはない 。本尊、教義、聖典のない宗教の誕生を、この人において見るのである。しかも、かれ はそうした自分の主張が固定化され、ドグマとなることを嫌って「わが語るところに執 着してはならない」といっている。こうして思想としては、もうこれ以上発展しようが なくなる。禅の思想は臨済において極まる。あとはふたたびそうした思想を固定化する ことなく、いかに具体的なものとして生かしつづけてゆくかという方法の探求となるほ かない。これが臨済を祖とする臨済宗で、やがて公案が発生する理由である。 |
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