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[仏教]

 
[日蓮宗の教義]
 
             参考:(財)仏教伝道協会「日本の仏教宗派」
 
 末法の時代の人々を迷いから目覚めさせ、他のすべての人々にも勧めて平和な理想社 会を実現するために、五綱ごこう とよばれる五つの考察の結論と、三大秘法(三秘さんぴ )とよばれ る三つの実践方法とが、日蓮宗における基本的な教えとして説かれている。
 五綱というのは、きょうこくの五つである。
 
 まず「教」とは「南無妙法蓮華経」である。釈尊の教えの精髄は『法華経』の寿量品 であり、その寿量品に秘められている真理(一念三千)は「南無妙法蓮華経」の五字七 字にそなわっている。この「南無妙法蓮華経」こそが末法の時代に最も適した教えであ るというのである。
 
 次ぎに「機」というのは、「南無妙法蓮華経」という教えが与えられる対象のことで 、末法時代に生きる、迷い悩める一般大衆を意味し、かれらがすべてこの教えを聞き受 けたもつことによって仏に成れるのである。
 「時」というのは、前述の教えが弘められるべき時代ということで、日蓮の時代以後 の末法悪世の時こそがその時であるということである。すなわち、釈尊滅後の末法に入 る時期は病気にたとえれば重病人であるから、最大の良薬である「南無妙法蓮華経」の 教えしか相応しない、とするのである。
 
 「国」とは、この教えが弘められるべき場所を指し、日本をはじめとして、全世界が その場である。
 最後の「師」は、以上の四つを充分に理解し自覚して、それを実際に行おうとする実 践者のことである。いくらすぐれた教えがあっても、それを弘めるために努力する人間 がいなければ教えは弘まらない。日蓮は、佐渡に流されたのを契機とし、末法の時代に 『法華経』を弘めるように釈尊から依頼された上行じょうぎょう 菩薩こそ自分であると自覚したわけ であるから、日蓮がこの師にあたる。
 なお、この「師」は、「じょ 」ともいわれ、歴史上『法華経』を弘めるべき順序に来て いるのを知ることであるが、その順序を知り、現在弘めるべき教えを実際に弘めるもの こそが「師」なのである。
 
 まとめて言うと、教・機・時・国・師(序)の五つを考察した結果、苦しみ悩む一般大衆 という「機」に、この末法の「時」に、日本をはじめとする全世界という「国」に、上 行菩薩の自覚を持った日蓮という「師」によって弘められるべき「教」は「南無妙法蓮 華経」なのだ、ということが必然的に明らかになるのである。
 
 次ぎに三大秘法とよばれる三つの実践方法であるが、これは教えとしての「南無妙法 蓮華経」を、実践の過程において三つに分けたものである。
 三つとは、本門ほんもん の本尊と、本門の題目と、そして本門の戒壇かいだんとである。
 本門というのは、中国の天台大師が、『妙法蓮華経』を、前半の十四章と、後半の十 四章とに分け、そのうちの前半十四章を迹門とよび、後半十四章を本門とよんだことに 由来している。
 
 すなわち、釈迦牟尼仏という仏は、もともと永遠の昔にさとりを開いて無限の寿命を もった仏であるという、仏の本地を明かしたのが本門で、その仏が、人々を救うために 歴史上の釈迦牟尼仏として迹を垂れたことを明かしたのが迹門である。
 したがって、「本門の本尊」というのは、歴史上の釈迦牟尼仏ではなく、永遠の昔に さとりを開いた仏としての、久遠実成くおんじつじょう の釈迦牟尼仏を意味し、この仏を救済の仏とし、 実践行の対象とするのである。この仏を宗祖日蓮は本尊と仰いだのである。
 
 「本門の題目」とは、本門の本尊たる釈迦牟尼仏から与えられた「南無妙法蓮華経」 であり、これを受けたもち、心に信じ、口に唱え、身体で実践することによって、仏と 成ることが出来るのである。
 「本門の戒壇」というのは、前述の題目を受けたもつ場である。本尊に向かってわれ われが題目を唱え、身体と口と心とによって受けたもつとき、本尊とわれわれとは、題 目を通して一体となることが出来る。このようにわれわれが本尊と一体となるべく励ん でいる場所こそが本門の戒壇なのである。
 
 もともと戒壇というのは、戒律をさずける場所のことであるが、戒律というのは、結 局のところ、悪をやめ善をなすことである。
 日蓮宗の場合、悪をやめるというのは間違った信仰を捨てることであり、善をなすと いうのは題目を受けたもって人々に弘めることなのである。したがって、自らが受けた もつだけでなく、他の人々にも受けたもたせようとする利他行りたぎょう が強調される。
 すべての人々が題目を受けたもち、仏と成ることが出来たとき、この地上に仏の国が 実現することになる。
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