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[仏教]

 
[浄土真宗の教義]
 
             参考:(財)仏教伝道協会「日本の仏教宗派」
 
 親鸞の教えとして在来の教えと異なるところは、在家仏教に踏み切ったところから出 発する。彼はこの心境を「僧に非ず、俗に非ず。このゆえに、禿の字を以て姓と為す」 と言っている。僧に非ずということは、彼が比叡山を降った事実と考え合わせて、ただ 山林に籠もり、家を捨て欲を捨て、この世の縁と交渉を絶って過ごす出家の僧ではない ことをいうのであろう。
 
 そうかといって彼は仏法を捨てたのではない。彼は世の中の人々が、名誉や利欲を求 めて立身出世を競い、互いに争い傷つけあって、怨み悲しみに浮沈する、俗生活の、そ らごとたわごと、まことあることのない痛ましさを、幼少の頃から見飽きていた。それ ゆえ、ひたすら仏の教えに従い、真実の生き方を求めたのである。このようにして形成 された親鸞の教えの特色は、次の五つに要約することができよう。
 
 第一は在家仏教、第二は本願他力、第三は信心正因、第四は現在不退、そして第五は 迷信排除である。
 
 まず在家仏教であるが、長い仏教の歴史の中で、親鸞によってはじめて具体化された ものである。しかしこれとても、彼の独断ではなかった。日本仏教の開拓者、聖徳太子 の手による「三経義疏」にあらわれている理念を吸収したのである。聖徳太子の理念は 、「日日の生活がそのまま仏道である」ということこそ大乗仏教本来の精神である、と いうのである。これを如実に実践し、具現した人こそ親鸞その人であった。
 
 従来の仏教者の中には、出家だけを真の仏弟子とし、在家の信者はそれよりも劣ると 考えるものがあった。しかし親鸞は、形式だけ出家しても、心が出家できなければ無意 味であると考え、それでは人間がほんとうに救われることにはならないと主張した。む しろ煩悩にまみれた人間本来の姿にかえって、そのままで救われてこそすべての人に適 応する教えだとしたのである。こうした願いを満たさしめるものが、阿弥陀仏の本願な のである。
 そこには出家・在家、善人・悪人の区別がなく、いかなる人も平等に救われる道が開か れたのである。
 
 親鸞はけっして自らが指導者の立場に立つことなく、仏の本願に救われるものは、身 分や職業のいかんを問わず、すべての人がおん同朋であり、おん同行であると、あらゆ る人を包容したのである。かくて村や町や国の境をこえ、たがいに敬愛し合ってこそ、 心からなる平和の精神がかもしだされてゆくことになろう。
 
 第二の本願他力であるが、いかなるものも漏れなく救うということが阿弥陀仏の本願 他力の趣旨である。かくて最低のものを摂取して、最高の道にめざめしめることこそ真 実の救いといえるであろう。
 他力というと、ややもすれば甘い依存主義にように誤解されがちである。しかし親鸞 は、他力のことを、本願力の廻向えこう といっているように、阿弥陀仏の本願の働きが、つね にわれわれにさしむけられ、それによって仏の智慧・慈悲一切の徳をわれわれに与えられ るのである。かくてわれわれのうちに、はじめて真の主体が確立し、いかなることにも 動揺しない、強い自覚をもって生きるようになるのである。
 
 第三に信心正因というのは、実はそういった強い自覚を得せしめられることで、それ こそ金剛堅固の信心なのである。われわれが仏となるためには、阿弥陀仏がすべての徳 を廻施してくださるのであるから、われわれはただその本願を信受すればいい。この信 心にあらゆる仏徳が具備して、まさしく最高のさとりに到達せしめる正因となるのであ る。
 
 仏教各宗の中には、われわれが仏果を成就するためには、あらゆる行を実践しなけれ ばならないと教える立場もある。これに対して法然は、念仏往生ということを力説し、 阿弥陀仏の本願を明らかにした。ところが念仏というと、称えることに執着し、念仏を 数多く称えれば善い結果が得られるというふうに考えるものが現れた。しかし念仏は単 なる呪文ではない。ただ口を動かして数多くとなえればよいというようなものではない 。そこで親鸞は、念仏の内容を詳しく分けて、念仏には、名号・信心・称名が具わってい ることを明らかにしたのである。
 
 すなわち阿弥陀仏は、われわれ凡夫を救うために、仏徳ありだけを廻向することを誓 ったのであり、それを表現したものが、南無阿弥陀仏という名号なのである。われわれ は深い煩悩におおわれているので、仏を見ることもとらえることも出来ない。そこで仏 は、どんなものでもたもちやすく、称えやすい名号を案じだし、その名号の中に仏の功 徳のすべてを収め、これを信じさせ称えさせることによって人々を救おうとされたので ある。したがって名号は、そのままわれわれに働きかけた仏の活動のすがたであるとい わねばならない。
 
 したがって親鸞は、この名号を本尊としてあがめたのである。
 この名号を信じ称えることは、日日の生活に追われ、忙しく走りまわっているわれわ れでも、いつどこで何をしていても出来るのであり、そのことは、仏と共に生きている ことになる。これこそ、在家仏教本来の真価を最も適切に示したものといわねばならな い。
 しかもその信心・称名は、仏より恵み施されるものであるから、われわれがあらゆる修 行をする以上の価値がそなわっている。したがって親鸞は、信心はそのままで仏に成る 種子であり、さとりに向かう心であることを協調したわけである。
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