67 菅原道真伝説
 
               参考:新人物往来社発行『日本「神話・伝説」総覧』
 
[菅原道真伝説]
 
〈あらすじ〉
 菅原道真は、承和ジョウワ十二年(八四五)京都の菅原院で生まれ、文人官吏として宇多
天皇朝前後に活躍し、延喜エンギ三年(九〇三)大宰府の謫居で薨じました。その六十年
近い生涯は、直孫の在躬著『菅家伝』(北野天神御伝)に簡潔に記され、近くは坂本太
郎著『菅原道真』などに考証の成果が明確に描かれています。
 
 しかし、道真には、史実を越えた伝説が数多くあります。概略大別しますと、生前の
言動を誇大に語る英雄伝説と、没後の霊力を神秘的に物語る天満天神伝説です。
 前者の若干例を挙げますと、『天神記』(北野天神縁起)などに拠りますと、まず(イ)
菅原是善が、家の南庭で「容顔体貌ただ人にあらず」と思える幼児を見かけ、その子が
是善を父にしたいと頼むので、悦んで養育したところ、「天才日あらたに」成長したと
云います。また(ロ)貞観ジョウガン十二年(八七〇)春、道真(26)は方略試(官吏登用試験
)を受けましたが、出題者都良香ミヤコノヨシカの家で弓遊びをした際、文弱に見える道真が武
術の弓射にも「百発百中のいきほひ」を示して良香を驚かせたと云います。
 更に(ハ)延喜元年(九〇一)大宰府に流されますと、無実を晴らす祭文を作り、高山に
登って七日七夜「天道」に訴えたところ、祭文が梵天まで舞い昇り、やがて「天満大自
在天神とぞならせ給」うたと云います。
 
 一方後者の伝説は、枚挙に遑イトマもありません。少し例示しますと、まず(ニ)延喜三年
(九〇三)二月大宰府で亡くなりますと、牛車で遺骸を墓所へ送る途中、牛が動かなく
なったので、その地に埋葬し、同五年八月、門弟の味酒安行が神託により、その地に祠
廟シビョウを造り、安楽寺を創建(安楽寺草創日記など)したと云い、これが太宰府天満宮
の前身とされています。
 次いで(ホ)その後、反道真派の関係者が次々死亡しました。例えば延喜九年四月には、
病臥中の左大臣藤原時平を文章博士三善清行が見舞い、子の浄蔵に祈祷させた際、道真
の怨霊が現れて「怨敵を報ぜん」と清行に祈祷の中止を求めたので、浄蔵が退出すると、
時平は直ちに途絶えた(『天神記』など)と云います。また延長エンチョウ八年(九三〇)六
月、清涼殿に落雷の際、大納言藤原清貫など数名が焼け死にましたが、それは「天満天
神の・・・・・・使者火来火気毒王のしわざ」である(前同)と云います。
 
 更に(ヘ)天慶テンギョウ五年(九四二)七月、右京七条に住む多治比タジヒ奇子アヤコ(文子)
に、「天神」から昔懐かしい「右近馬場」への奉祀を願う託宣があり、また五年後の天
暦テンリャク元年(九四七)三月には、近江の比良郷に住む禰宜神良種ミワヨシタネ子太郎丸にも、
「火雷天神」より「右近馬庭」への移座を願う託宣がありました。そこで、朝日寺の僧
最鎮が協力して、北野の当地に社殿を造立した(『北野天神御殿』所収「創建縁起」「
最鎮記文」など)と云います。これが北野天満宮の前身とされています。
 
〈歴史的分析・解釈〉
 前記に挙げました数例のうち、前者(イ)(ロ)(ハ)は、道真の非凡な出生奇瑞・文武兼才・
神通霊験を語る伝説で、英雄には珍しくありません。
 なお、仁和ニンナ四年(八八八)"阿衡"紛議の際、道真が窮地に立つ橘広相ヒロミを弁護し
ましたので、広相が薨後、道真の夢に現れて謝意を表し「三金笏」を授けた、と云う『
菅家伝』所載の記事なども、道真の偉大さを傍証する挿話です。
 一方、後者(ハも含む)(ニ)(ホ)(ヘ)の天神伝説は、各々その成立年代や史的解釈などを巡
り、古来様々の議論が見られます。此処には通説・新説の一端を紹介します。
 まず(ホ)に関して、道真の怨霊が現れ、人々に祟る、と恐れられるようになったのは、
可成り早くからです。取り分け延喜二十三年(九二三)三月、皇太子の保明親王(母は
藤原時平の娘)が二十一歳で急逝すると、「挙世云、菅帥霊魂宿忿所為也」との噂が広
まり、朝廷ではその一ケ月後、菅帥(大宰府権帥で薨じた菅公)の本官を右大臣に復し、
極位を一階進めて正二位を贈り、延喜元年の左遷宣命を焼却させて、名誉回復による怨
霊慰撫に努めました(『日本略記』など)。
 因みにこの四月、右大弁源公忠が頓死して蘇生し、その間に冥界で道真に遭い、「延
喜の帝こそ頗スコブる荒涼なれ・・・・・・」と訴えられた旨を報告したので、醍醐天皇は恐れ
をなして復官贈位と破詔の措置を執り、年号も延長と改元された(『天神記』)と云い
ます。この公忠蘇生譚は、天慶四年(九四一)の日蔵蘇生譚(道賢上人冥途遍歴物語)
より早く、恐らく実話に近いと認められます。
 
 また(ヘ)に関しては、天神関係の善本を集成した真壁俊信氏校訂『北野』などに基づく
斬新な研究成果が、近年次々発表されています。それらは藤原克己氏が「天神信仰を支
えたもの」(『国語と国文学』)に手際よく纏め、自説も加えています。その要点を抄
出しますと、次の通りです。
 
  即ち、北野天満宮は前掲三者の協力で創立された如く見える。しかし、猪熊全寿氏
 蔵恩頼堂文庫本『北野天神御託宣記文』所収の「創建縁起」と「最鎮記文」をよく調
 べると、「奇子派と最鎮派の対立」があったことは否定出来ない。
  多治比奇子は、初め西市に近い右京七条の自宅に福徳をもたらす天神を祀っていた。
 やがて北野へ移ってからも、その子孫が秦氏や在地富豪層たちに支えられて伝領進止
 権を主張している。
  それに対して天台僧最鎮は、比良宮禰宜神良種と組み、また菅原氏や摂関家の人々
 と結び、道真の怨霊的威力と文神的功績の両面を強調して勢力を伸張し、奇子派を凌
 いで北野社を支配するに至ったと見られる。
 
 ただ、同所収「比良宮託宣記」を見ますと、北野天神は、「御霊神としての庶民的民
俗的な風貌と、摂関家の守護神にも文人の神にもなり得る貴族向けの顔とを合わせ持つ
」が、それ故に、「貴族と庶民とを包摂する京都住民の"都市神"に転化し」得たと云え
ると思います。
 
〈まとめ〉
 道真に関する伝説は、冤罪による左遷・客死が関係者の恐怖と一般人の同情を呼び、
薨後間もなく様々の形で語られ始め、それが天神信仰の中で変容し拡大して行きました。
 その神威を表す称号を見ても、「日本太政威徳天」「火雷天神」「天皇満自在天神」
「あら人神」「観音之化現」などから「文道之大祖・風月之本主」及び和歌・書道・芸
能の神などまで、多種多様です。
 なお、その現状は山中耕作氏編『天神伝説のすべてとその信仰』に、全国調査の成果
が収録されています。
                             (原執筆者:所功氏)

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