64 神功皇后伝説
参考:新人物往来社発行『日本「神話・伝説」総覧』
[神功ジングウ皇后伝説]
〈あらすじ〉
仲哀天皇の御世、天皇が熊曽国を撃とうとして筑紫の訶志比宮に坐したとき、神の託
宣を乞いました。天皇が琴を引き、建内宿禰大臣が沙庭サニハ(審神者)になり、神功皇后
に神が憑依ヒョウイしました。その神の言葉に「西方に、金銀財宝の豊かな国があるので、
それを服属させて与えよう」とありました。ところが天皇はその神の言葉を信用せず、
神の怒りに触れ死を賜りました。そこで、天皇を殯宮に収め、国の大祓えを行い、今一
度神の言葉を乞いましたところ、「この国は皇后の腹中にいる御子の治めるべき国であ
る」とありました。更にその御名を問いますと、「この神託は天照大神の御意志であり、
神名は底筒男、中筒男、上筒男の三神(住吉大神)である」と答え、新羅を征討するた
めの神祭り・呪術の方法を教え覚しました。
教えのままに皇后は軍備を整え、新羅へと出発しますと、海中の魚が悉く船を背負い、
順風に吹かれ浪のまにまに進み、波涛に押し上げられて、新羅の国の半ばにまで達しま
した。新羅の国王は畏惶まり永久の服従を誓いました。そこで新羅国を御馬甘と、百済
国を渡の屯家と定め、御杖を新羅国王の門に衝き立て、墨江大神の荒御魂を国守の神と
して祭り帰国しました。
その新羅征討の政が未だ終わらない頃、皇后の腹中の御子がお生まれになろうとしま
したので、皇后は御腹を鎮めるために石を御裳の腰に取り付けていました。新羅より還
って、筑紫国で御子は誕生しました。その地を宇美と名付けました。その鎮懐石は筑後
国伊斗村にあります。また筑紫の末羅県の玉島里に着き、河辺で食事をしたとき、御裳
の糸に飯粒を付けて年魚を釣りましたので、以来四月の上旬になると、女たちが同じ方
法で年魚を釣るようになりました。
大和に還るに当たって、世情が不穏なので、御子を喪船に載せて、御子が亡くなった
と言い触らせました。果たして香坂王・忍熊王の反乱に遭遇しました。御子方の将軍和
迩臣の祖建振熊命は、「神功皇后は既に亡くなった」と欺き、欺陽りの降伏をし、敵の
油断を誘い、これを撃退しました。
御子が淡海から若狭を経て、高志の角鹿で伊奢沙和気大神と名易ナガえをしたのを、皇
后は待ち受けて待酒を献上し、酒楽歌を歌いました(以上『古事記』に拠る)。
『古事記』では仲哀記に記されていますが、『日本書紀』では神功皇后一巻が設けら
れ詳しい叙述があります。
〈歴史的分析・解釈〉
神功皇后伝承には、次のような問題があります。一つには出自、息長氏との関係です。
次に皇后としての呪的役割です。次に応神天皇の母としての役割です。次に『日本書紀
』に拠る歴史的位置付けです。また地方伝承との関わりです。
神功皇后(息長帯比売命)は父が息長宿禰王、母は葛城之高額比売で、父は開化天皇
の御子日子坐王の末裔、母は天之日矛の末裔です。息長氏は琵琶湖畔の坂田郡を本貫地
とする地方氏族ですが、応神記末に記される、いわゆる若野毛二俣王系譜の中の大郎子
(意富々杼王)を祖とします。この意富々杼王は上宮逸文にも見え、継体天皇の祖と云
う位置にあります。また息長氏は天武十三年、八色の姓制定のときに、真人を賜ってお
り、天智・天武天皇の父である舒明ジョメイ天皇の父、押坂彦人大兄皇子の母方氏族でもあ
ります。そこで、応神朝前後に力を持った氏とする見方、継体擁立に関わって力を振る
った氏とする見方、天武朝の修史事業に携わりその功績を歴史叙述に反映させたと云う
見方などがなされ、定見を得ていません。舒明天皇の諡号シゴウがオキナガタラシヒヒロ
ヌカであることから、この皇統に息長氏が深く関わっていたことは疑いを入れる余地は
ありません。オキナガタラシの名は神功皇后の御名にもあり、由縁浅からぬことが理解
できると思います。このため、神功皇后伝承が、斉明天皇(舒明天皇の后)の御事蹟新
羅出兵の歴史反映説が有力視されてきました。しかしながら地方伝承との兼ね合いから、
これを絶対視することにも躊躇せざるを得ない面もあります。継体紀六年十二月条には
任那四県割譲に際し、神功皇后の新羅征討に触れており、核となる伝が先行していた可
能性も見てとれるからです。
神功皇后が神憑りを始めとして、様々な呪的行為を執るのは、特に『日本書紀』に詳
しいが、皇后としての神秘的威霊力を伝えるものであると共に、応神天皇の母としての
位置付けに深く関わります。それはまた一方で『日本書紀』が神功皇后を卑弥呼と重ね
合わせる素地ともなっています。
いわゆる鎮懐石伝承は、地方伝承を吸い上げたものとされますが、応神天皇の異常出
生を描くことに主眼があった筈です。処女懐胎をも想起させるこの伝は(後世神功皇后
と神の婚姻を伝えるものも現れる)、応神天皇の神聖性を主張するものと考えられます。
『古事記』では、応神記は中巻最後に位置し、下巻冒頭の「聖帝」仁徳天皇へと繋がっ
て行きます。上巻最終部に火中出生と云う異常出生を記し、その御子が海神の娘で八尋
和迩の姿を持った豊玉毘売から出生して、中巻神武天皇へと接続しているのと、同工異
曲の叙述と認められます。因みに、火遠理命が海神より「塩盈珠・塩乾珠」を授けられ
ましたように、神功皇后は如意珠を手に入れています(仲哀紀二年七月条)。住吉大神
の背景には海人族があり、息長氏もその文字から、海人と因縁浅からぬものとされてい
ます。
応神天皇の母としての役割は、神の子出生を語るための巫女的性格にありました。『
日本書紀』は神功紀三十九年、四十年、四十三年に魏志倭人伝、六十六年には晋書を注
に引用して、神功皇后を卑弥呼に準えています。これは『日本書紀』編者の歴史観であ
ると思います。
『常陸国風土記』『播磨国風土記』『肥前国風土記『』摂津国風土記』『筑前国風土
記』に神功皇后新羅征討の際の地名起源説話を記します。豊富な地方伝承が想起されま
すが、『万葉集』にも巻八・八一三番歌が筑前で鎮懐石を見て作ったと記されています。
皇后と新羅征討の結び付きが深く伝承されている姿が偲ばれるように思います。
〈まとめ〉
神功皇后の伝承像は、新羅征討の姿、巫女としての威霊力、神の子応神天皇の母親像
として結実していますが、氏族的背景、歴史的背景、記紀における位置付けなど、残さ
れた課題が少なくありません。
〈分布伝承される地域〉
記紀に記された遺承地が、宮や鎮懐石を始めとして九州に多数残ります。また住吉神
社など祭神として祀る社も少なくありません。文献として『愚管抄』『神皇正統記』な
どが神功皇后に深い関心を示すと云われていますが、特に注目すべきは『八幡宇佐宮御
託宣記』『八幡愚童記(訓)』であると思います。住吉信仰と共に八幡信仰により、広
く分布するに至ったからです。
(原執筆者:多田元氏)
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