65 大友皇子伝説
 
               参考:新人物往来社発行『日本「神話・伝説」総覧』
 

[大友皇子伝説]
 
〈あらすじ〉
 壬申の乱に敗れた大友皇子は、蘇我赤兄アカエ・蘇我大飯オホイなどと共に、琵琶湖畔の別
所より船に乗り、瀬田川を下って難波へ出ました。難波から海路を辿って東に進み、最
後に上総国の着浜ツバマ(千葉県富津市津浜)に辿り着きました。上陸した皇子は小櫃川
を遡上し、天武二年四月に田原の里(同県君津市俵田)に館を築城し、これを小川宮と
称しました。その後、大友皇子の所在を知った天武天皇は二万からなる追っ手を派遣し、
大友皇子も手勢三千を率いてこれを迎撃しましたが敗れ、田原付近の地蔵堂で自決しま
した。大友皇子の遺骸は、小櫃に納められ、城山(同所に鎮座する白山神社の裏手の小
山)に葬られました。
 
〈歴史的分析・解釈〉
 『日本書紀』天智七年二月条に拠りますと、大友皇子は、天智天皇と伊賀采女イガノウネメ
宅子娘ヤカコノイラツメとの間に生まれた皇子で、伊賀皇子とも呼ばれました。『日本書紀』天
智十年正月、大友皇子は正太政大臣に任ぜられました。当時の東宮(皇太子)は、天智
天皇の弟であり、大友皇子にとっては叔父に当たる大海人皇子(後の天武天皇)です。
『日本書紀』天智十年十月条には、大海人皇子が政権を大友皇子に譲り、吉野山中に出
家したとあります。東宮である大海人皇子が出家した後、大友皇子が立太子及び即位し
たか否かは、明確ではありません。『日本書紀』には、大友皇子の立太子・即位の記事
は見えません。『懐風藻』大友皇子伝には立太子のことは見えますが、即位については
記していません。同様に、『帝王編年記』は即位のことを記しません。一方、『扶桑略
記』『水鏡』『大日本史』は、大友皇子の立太子・即位を認めています。弘文天皇とは、
明治三年に追諡された諡号です。天智帝崩御の後、大友皇子と大海人皇子との間に皇位
継承を巡っての争いが起きます(壬申の乱)。『日本書紀』に拠りますと、天武元年七
月十三日、大友皇子は、瀬田において大海人方の将軍村国連男依ヲヨリと戦いましたが敗
れ、二十三日男依の軍に追い詰められた皇子は山前ヤマザキ(山前については、近江説・河
内説・山城説がある)で自縊して死にました。その三日後(二十六日)、大友皇子の首
は、大海人皇子のいる不破宮に奉られました。
 
 以上、『日本書紀』を中心として史書における大友皇子関連記事を見てきました。史
実では、大友皇子は山前で死んだことになっていますが、伝説では千葉県君津市周辺に
逃れたと、『房総志料叢書続篇』に『久留里記』を引用する形で載せられています。君
津市の大友皇子伝説の中心となるものは、君津市俵田に鎮座する白山神社(古くは田原
神社と呼ばれました)です。此処に皇子の住んだ小川宮があったと云います。また、本
殿の裏に存する小櫃山古墳は、大友皇子の遺骸を納めたものであると信じられています。
大友皇子の正式な御陵とされているのは、滋賀県大津市の園城寺(三井寺)にある内亀
塚です。田原神社の創建については、延喜式神名帳にその名は見えませんが、『三代実
録』元慶ガンキョウ八年(八八四)七月条に従五位下を授けられたとありますので、遅くと
も平安初期には創建されていたことが分かります。社伝には、天武十三年に天武の勅使
派遣によって大友皇子が祀られたとあります。君津市周辺に伝えられる大友皇子伝説の
特徴として、蘇我氏が必ず登場し、五月七日を「蘇我殿の田植え日」とし、この日は田
植えをしないと云う習俗の起源として語られている点です。小櫃駅付近の田は、「死田
」(大友皇子が田植えに際し、日を招き戻したので、天の怒りに触れ、早乙女たちが皆
死んだと云う伝説に由来する)と云われ、五月七日の午後は農事を行いません。大友皇
子伝説に蘇我氏が登場するのは、千葉市に式内蘇我比羊(口扁+羊)ソガヒメ神社があるこ
とと関係するかも知れません。なお、大友皇子とは関係がなく、田を「死田」「死人田
」と詠んで、農事の忌日を決める由来を語る伝説や、田植えに際して日を招き戻す伝説
は全国に分布します。
 
〈まとめ〉
 『日本書紀』の記事からは、大友皇子像はあまり鮮明に浮かび上がっては来ませんが、
『懐風藻』大友皇子伝が皇子を知力・体力共に優れた英雄的な人物として描いているこ
とは、早い時期に大友皇子が英雄化されている例として注目されます。大友皇子が即位
したか否かについては、現在でも意見が分かれていますが、『日本書紀』の記述を重視
して即位していないと考えるとき、皇子が即位したと云う伝承も、大友皇子を英雄化し
て行く過程で生み出されてきたものと理解されます。このような英雄的な人物が不遇の
死を遂げた場合、義経伝説に代表されるように、実は生き延びていたと云う伝説が生ま
れてきます。君津市周辺の大友皇子伝説の場合も、その範疇に含め得れると思います。
 
〈分布伝承される地域・史跡〉
 大友皇子伝説と関わる場所は君津市付近に多い。主要なものとして、前述の白山神社
(田原神社)・死田の他に、皇子に仕えた女官たちが小川宮炎上を知り自害した場所と
して伝えられている同県木更津市下郡の十二所神社や、天武方との合戦で討死した君津
市俵田の七人士の墓などがあります。君津市周辺以外の地域では、愛知県名古屋市撞木
町に大友皇子の陵と伝えられるオトモ塚があり(『名古屋市史地理篇』)、神奈川県伊
勢原市の日向薬師の側に、皇子の墓と伝えられる石塔があると云います。なお『今昔物
語』(巻十一第三十話)に拠りますと、奈良県笠置町の笠置寺は、大友皇子によって始
められたと云います。
                            (原執筆者:福沢健氏)

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