63 日本武尊伝説
 
               参考:新人物往来社発行『日本「神話・伝説」総覧』
 
[日本武尊ヤマトタケルノミコト伝説]
 
〈あらすじ〉
 日本武尊は、景行天皇を父とし、播磨ハリマノ稲日イナビノ大郎女オホイラツメを母として生まれま
した。名を小碓尊ヲウスノミコト、日本童男ヤマトヲグナとも云いました。『日本書紀』景行記の伝
えに拠りますと、「幼ワカくして雄略ヲヲしき気イキ有マします。壮ヲトコザカリに及イタりて容貌魁
偉。身長一丈ヒトツエ(約2m)、力能ヨく鼎カナエを扛アげたまふ」とあります。少年の頃、父
景行天皇に対し従順でない兄大碓皇子をその怪力で殺しました。この猛々しさを恐ろし
く思われた天皇は、九州の熊襲建クマソタケルの討伐に向かわせます。ヤマトタケルは「御室
楽ミムロノウタゲ」のとき、姨オバの倭比売命ヤマトヒメノミコトから貰った衣装を着て女装し、懐剣を
以て酔った熊襲建兄弟を刺します。弟の方が死ぬときにヤマトタケルノミコ(記・倭建御
子、紀・日本武皇子)と称号を奉りました。そして帰還の途中、山神ヤマノカミ、河神カハノカミ、
穴戸神アナトノカミを服従させました。また、出雲国に立ち寄り、出雲建と"刀タチ易カへ"をし、
「詐刀イツハリノタチ」を彼に持たせることによって誅伐しました。帰還しますと天皇は寸暇も
与えず、東征の命を下しました。ヤマトタケルは東征の途中、伊勢神宮に立ち寄り、姨
の倭比売命に、父は自分に「死ね」と思っているのだろうか、と泣き悲しみながら訴え
ますと、姨は草那芸剣クサナギノツルギと火打ち石の入った袋を呉れました。
 尾張国に到着して、美夜受比売ミヤズヒメ(尾張国造の祖)と婚約します。その後、相模
国造に欺かれ(紀では駿河国)、焼津で野火に焼かれそうになりましたが、火打ち石で
難を逃れました。走水海を渡ろうとしたとき、渡神ワタリノカミに塞られ、船が進まなくなり、
后の弟橘比売が入水して難を免れました。その時に御櫛の流れ着いたので御陵を造りま
した。その後、荒れすさぶ蝦夷や山川の荒れすさぶ神々を平定しての帰途、足柄の坂本
で、坂の神を退治しました。足柄の坂上に上って「あづまはや(吾が妻よ)」と嘆きま
した。それから甲斐の酒折宮に出て、御火焼の老人を東国造に任命しました。其処から、
信濃を経て、尾張国に帰って来ました。そこで以前に約束した通り、美夜受比売と結婚
しました。そして草那芸剣を美夜受比売の処に置いて、伊吹山の神を討ち取りに出掛け
ましたが、山の神との戦いに破れ、山を下りて居寤清泉イサメノシミズに戻って、正気を回復
しました。しかし、美濃国の当芸野の辺りを通過したとき、酷く疲れて、杖衝坂ツエツキサカ、
尾津前ヲツノサキ、三重村ミヘノムラと過ぎ、能煩野ノボノで国思歌クニシノビウタを詠んで崩じました。
倭から后や御子たちが駆け付けましたが、ヤマトタケルは八尋白智鳥ヤヒロシロチドリになっ
て、河内の志幾シキまで飛んで行きました。其処に白鳥御陵を造りました。
 
 以上が『古事記』を中心とした伝承のあらましですが、『日本書紀』や『風土記』『
熱田神宮縁起』などにも伝承を伝えます。
 
〈歴史的分析・解釈〉
 ヤマトタケルの伝承は、ヤマトの戦略的拡大を伝承の舞台として、一人の人間の生涯
として描いているところに特徴があります。特に『古事記』の場合が顕著であり、『日
本書紀』のように編年によって伝承が分断されることがありません。更に景行記の大部
分はヤマトタケルの伝承によって占められ、恰もヤマトタケル一代記の観を呈していま
す。ヤマトタケルの伝承は、本来ヤマト国家の成長に伴う皇族将軍等の軍征に関する伝
承が、その原話となってであろうことは、伝承の舞台から推察出来ます。しかし、記紀
におけるヤマトタケルの伝承は、あくまでも一個人の伝承となっている点が注目されま
す。しかも父景行天皇との劇的対立関係が、この伝承の文学性を支える梃子テコになって
いることなどは、古代における王位継承のあり方が一方に影を落としていると思います。
ヤマトタケル伝承の素材については、文学的方向からは、素材の持つ民俗性から、各伝
承の背景にあるものを推察しようとする立場があります。一方歴史的な方向から見ます
と、「英雄時代」を想定しての論があります。また、王権史的見地レベルから論じられ、
手本モデルとされるのが雄略天皇です。諡号シゴウがワカタケルを含むことや、倭王武(宋
書倭国伝)とあること、また、その伝承に共通点があることなどから、雄略天皇の属性
を移し換えて再生された存在がヤマトタケルである、との見方があります。タケルの名
称が天皇諡号に使用されることについては、称号に相応しい歴史が既に積み重ねられて
いたと見るべきです。つまり、雄略の時代には、"タケル"はヤマトの英雄としての意義
を既に有していたからこそ、諡号に用いられたと考えられるのです。伝承においては、
相異なる名称で登場する人物は、異なる性格を担わされていると思いますので、安易な
反映説は、伝承の本質論から見ても採るべきではないと思います。
 
 ヤマトタケルの物語の成立について考えますと、第一段階としては、皇族将軍と行動
を共にしたり、朝廷の軍事行動に関わった集団を考えるべきと思います。当然そのよう
な段階では、挿話エピソード的な口承に因るものであったと思います。軍事的集団で留意さ
れるのが、景行記 − 御且(金扁+且)友耳建日子ミスキトモミミタケヒコ(吉備臣)・七挙脛ナナツカ
ハギ(久米直)、景行紀 − 吉備武彦・大伴武日連・七掬脛ナナツカハギ・武部の各氏族・部
民です。これにの集団が素材の提供、伝承形成の上で何らかの役割を演じたと考えられ
ます。その他美夜受比売との関係で登場する尾張氏、弟橘比売の穂積氏などの関与が認
められると思います。また、系譜上、景行天皇や倭比売命が外祖父丹波タニハノ道主王ミチヌシノ
オウを通して日子坐王ヒコイマスオウの系譜に繋がること、また建部君タケルベノキミの出自などから和
迩ワニ氏の介在を想定する考えもあります。これらの氏族の関与については、その時期を
も含めて未だ十分には解明されていません。
 
〈まとめ〉
 大和の勇者が東西の征討に従事した伝承は、それぞれ別々に幾つか存在していたので
あり、その後「原古事記」の成立時期(天武朝末年)までの間にヤマトタケルを主人公
とする一代記的な歌物語となったものです。其処には、歴史的な性格を持つ伝承から、
やがて個人の抒情性を含む文学性豊かな伝承に発展して行く過程と、伝承の享受者の心
情を読み取ることが出来ます。また、人物像の造型にはその多面性から見て各種の民俗
や信仰性が背後にあり、それに加えて、伝承そのものの作用によって形成されていたも
のと見られます。 
 
〈分布伝承される地域〉
 古代関係の文献では、記紀の他に − 『古語拾遺』『新撰姓氏録』『旧事紀』『常陸
国風土記』『出雲国風土記』『肥前国風土記』「尾張国風土記逸文」「陸奥国風土記逸
文」などに見られます。また、社伝、口碑等に見える伝承の分布については、加藤禮子
氏の作成になる「ヤマトタケル伝承地マップ(『歴史読本』特集伝説の英雄ヤマトタケ
ルの謎 − 一九八九年六月号収録)が便利です。
                           (原執筆者:瀧口泰行氏)

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