55 宗教と神話伝説
 
               参考:新人物往来社発行『日本「神話・伝説」総覧』
 
[宗教と神話伝説]
 
 奈良絵本の一つに、奇妙な名の『うばかは』と云う物語があります。
 「姥皮」と書き表し、姥、つまり年老いた女の皮と云う意味になります。継子苛イジめ
の話と観音霊験譚によって構成され、神話的な永遠の主題テーマである継子苛めが、宗教的
な説話によって彩られています。其処から、宗教が神話や伝説の中でどのように現れる
のか、また現実に対してどのようなことを語り掛けているかを窺ウカガい知ることが出来
るのです。
 まず『うばかは』の簡単な物語ストーリーを辿って見ましょう
 
 父親が都に上った留守の間に、姫君は継母に苛められて、出奔します。亡き母が常々
参詣していた、ある観音堂に辿り着きます。姫君は母親の住む処、つまり極楽浄土に急
いで行きたいと思い、観音堂の内陣の縁の下に、こっそりと忍び込み、篭もりました。
寺社の縁の下に篭もることは、『北野社参詣曼陀羅』に描かれているように、中世の可
成り有り触れた光景でした。それは、祈願、また神仏の夢告・霊告を受けるための参篭
なのです。また、最終目的シンボリックは死に至ることに他なりませんので、この姫君は文字
通り死を望んでの篭もりでした。
 姫君はただ死を待っていたのではありませんでした。「まさしく観音菩薩の大慈大悲
の御誓いは、衆生の現世安穏、後生善処を守護すると云う御誓願ですが、私にはこの世
での願いは全くありません、ただひたすら後生安穏のみを願うだけであります」、と姫
君は祈願します。そして、常々母親から教えられた観音経を怠ることなく唱え続けまし
た。
 
 三夜篭もった暁に、金色の光を放った観音菩薩が姫君の枕上に立ち現れました。観音
菩薩は、「お前の母は参詣の度毎に、お前の行く末を案じて、よく祈っていた。このよ
うに迷っているのは、何と不憫なことよ、お前の姿はこの世に類いなく美しいので、何
処かできっと人にさらわれてしまうことでしょう」と告げました。そして、「これを着
よ」と言い、木の皮のようなものを姫君に授けました。これが「姥皮」でした。それか
ら、観音菩薩は「近江国の佐々木民部の館の門前に立て」、と姫君に教えました。
 姫君の床下参篭は母親の許へと罷マカりたいとの願いでしたが、観音菩薩の霊告を授か
るためのでもありました。姫君は姥皮を身に纏って、縁の下から出ます。姫君は生まれ
変わったのです。死と再生と云う神話的な主旨が丁寧に織り込まれています。
 
 姫君の姿を眼にした人々は「何と恐ろしい姿をした"姥"であることよ」と嘲り笑いま
した。姫君は老婆、それも怖じけさせるような恐ろしい姥の姿へと変身したのです。そ
のため、野に伏し、山に臥しても、姫君を見返る人は誰もいませんでした。姫君は佐々
木民部高清の館で「火焚き姥」として雇われて働き続けました。高清の息子、高義が姥
皮を脱いだ姫を目撃してその正体を知り、後に夫婦の契りを結ぶことになります。姥皮
を脱いだ姫君の姿は、この世の人ではないかのように、まるで天人か、菩薩が天下りし
て来たかのようで、これほどまで美しい人はこれまで見たことも聞いたこともない、と
云う程の賞賛を浴びました。目出度し、目出度しで終わる、と云う観音霊験譚です。
 
 この女の生を彩ったのは、観音菩薩と云う「女神」です。美女から醜女への変身、醜
女から美女への変身と云う鮮やかな演劇術ドラマツルギーは、女の心を揺さぶりました。更
に、身を窶ヤツし、苦難の果てに辿り着いた女としての栄耀栄華、或いは極ささやかな妻
としての境涯と云う局面シチュエーションも、変転極まりない社会の中で、女の生のあるべき姿
を魅了するように見せつけました。何れも観音菩薩の霊験の賜物でした。観音菩薩と云
う「女神」が女に試練を与え、見事それに打ち勝って、新たな生を迎えることになりま
す。娘から女への変貌イニシエーションが隠された主題テーマであると思います。
 
 とは云え、観音菩薩に縋スガらざるを得ない、女の生のありようを描いたものです。と
するなら、観音菩薩とは、女のどのような現状を照らし出していたのでしょうか。観音
菩薩が姫君に授けた姥皮とは、変身の衣であったと見なすことが出来ます。しかし、そ
れは醜く恐ろしい姿、異形の者へと変身させる衣でした。単なる老女へと変身させるも
のではありません。「姥」には、謡曲『山姥』が踏襲されています。山姥は山路を行く
人を助け、機織る女の糸繰りを手助けし、砧キヌタを打つ女の手助けもしますが、「輪廻を
離れぬ、妄執の雲」を身に纏って、「鬼女」として「山巡り」、漂泊に明け暮れるので
す。此処には、産育の「女神」としての「姥神」「山の神」の面影が遥曳していると共
に、女の生業と境涯が象徴的に映し出されていると思います。
 
 山姥は、『瓜子姫』と云う有名な昔話の中にも登場します。この山姥は瓜子姫の皮を
剥ぎ、食ってしまうばかりでなく、その皮を被って、瓜子姫に化けてしまう、と云う話
です。丁度『うばかは』を逆転させた物語です。『うばかは』で、姥の皮を被ると云う
ことは、異界から訪れる、このようなまがまがしい山姥の霊力を姫君は帯びたのです。
 山姥は、単に負マイナスの心像イメージが付与されている訳ではありません。金太郎の母親の
山姥は、奇しき霊威を帯びた怪童を育む「女神」です。山姥は姥神として正プラスの霊力
を担うこともある、即ち、観音菩薩に対して、姫君が我が身を供犠とて捧げることによ
って、山姥の持つ異界のまがまがしい霊威が、観音菩薩と云う聖なる回路を通じて、幸
いをもたらす霊威へと転換されたことを示しています。
 
 観音菩薩と云う「女神」の神話の中に、継子として象徴された女の生が回収されたの
です。女の境涯とは、誰からも守護されず、ただひたすら観音菩薩の霊験にのみ縋る他
ないものと、神話は語り続けるのです。観音菩薩への参詣によって、果たされない霊験
への期待は膨れ上がります。このなかなか実現されない観音菩薩の霊験は、女の救いを
繰り延べにしながら、激しく希求させたばかりでなく、女の現状を悲惨の極みへと突き
落として行くことにもなりました。観音菩薩と云う「女神」とは、そうした女の境涯を
正当化し、固定化する宗教的な喩え(隠喩メタファー)であり続けました。
                           (原執筆者:川村邦光氏)
[次へ進む] [バック]