52 日本人の道徳観と神話伝説
 
               参考:新人物往来社発行『日本「神話・伝説」総覧』
 
[日本人の道徳観と神話伝説]
 
〈日本人の形質的構造〉
 日本民族は旧石器児に日本列島域に移住し、その人種的基幹は原ユーラシア北方種と
目される一群の種族であると思います。続いて中石器時代を経て、新石器時代になりま
すと、縄文文化の荷担者である原日本人proto-japaneseが形成され、固有の民族文化は
北アジア的寒流系漁撈文化と見られます。縄文中期に至ると大陸北方の種族が朝鮮半島
を経て渡来し、水田耕作を伴う耨耕ドウコウ文化を伝播させ、また南方から南アジア的暖流
系漁撈文化が伝来し、固有の漁撈文化と融合して漁撈文化が飛躍的に発展しました。漁
撈・耨耕文化の複合によって生活空間が拡張され、生活の安定が人口増殖に繋がりまし
た。漢の武帝が設置した楽浪郡は、原日本人の一部族である倭人を刺激して通交を活発
にし、北方系寒冷地栽培稲と、鉄器・青銅器文化を受容するに至りました。縄文末期か
ら弥生初頭の頃です。その間原日本人を基幹として日本列島で、原アイヌ族・南ツング
ース族・インドシナ族・インドネシア族・ネグリト族・漢族proto-chinese等と地域的・
間歇的混淆を重ね、古墳時代までには略々近代日本人の形質的基層を確定して、混血人
種としての日本民族の形成が完了していたと考えられます。
 このような形質的構造を持つ日本人の民族性について見ますと、その基本的な性格と
して、(一)適応性、(二)移動性、(三)包容性、(四)平和性、の四つの性格の要
素が指摘されます。
 
〈適応性〉
 まず古代日本人は長らく日本列島を生活の基盤としていて、列島の持つ特有な自然環
境に順応して豊かな生活を展開してくるうちに、あらゆる環境に適応して彼等の生活を
良きものに改変して行く性格を民族性として習得しました。日本列島は寒帯から熱帯に
近い暖帯まで、異なった気候条件下にあり、かつ四季の変化が規則的です。地形も島嶼
特有の山岳的・森林的ですが、若干の平野も海浜もあって、複雑です。この環境に即応
した生活は漁撈耨耕を主体とし、狩猟も行われ、やがて水稲耕作に転換するとそれに順
応した生活を営みます。環境への経済的・社会的適応が狭い島地にも拘わらず、変化の
ある生活を可能にし、民族の反映をもたらしました。狭長な日本列島の北から南へ、東
から西へ、隅々まで居住地域・生活空間を拡大し、至る所で生活を享楽し、人口の漸進
的増加と文化の進展を続けたのは、基本的にはあらゆるものに適応して行くと云う性格 
− 適応性を基本の性格として形成していたことに因ります。
 
〈移動性〉
 適応性の発達は、「行くとして可ならざる所なし」と云う性格を示すが故に、第二の
移動性と云う性格を派生させます。日本民族が元来漁撈・狩猟を生活の基盤としていた
ので、漁撈民・狩猟民としての性格が基本でしたから、その生活様式は漂泊・仮泊・移
動の生活を営んでいました。一所での固定停滞した生活よりも食料獲得の点から移動生
活が行われ、また海に接した生活は、早くから航海に慣れ、移動性を助長しました。農
耕生活は定着生活をもたらしますが、わが国の農耕文化が水稲栽培に重点ウェイトを置いた
ため、彼等は水田を求めて水線移動により低湿地帯を求めるため、水上移動による弥生
文化の、西から東への移動伝播を捗進しました。弥生文化の西から東への水上移動の習
性は、日本民族に東方憧憬の観念を植え付け、神話に見る「朝日の直タダ射す国・夕日の
火ホ照る国」の美称を生みました。日本列島に定住した日本民族は、その自然に左右され
て、島国性という性格が強いとされます。確かにそうした傾向は否定出来ませんが、し
かしそれは当初からの性格ではなく、少なくとも奈良時代以後に形成された二次的な性
格です。奈良朝以前の日本民族は著しく移動性の性格を持ち、それは島地であるが故に
その反面、四面環海の自然が民族性として海洋性を植え付けていたことに因ります。海
を航して自由自在に何処へでも移動すると云う慣習を生ぜしめたのです。
 
〈包容性〉
 第三の性格は、総てに順応し、一つ場所に定着せず何処へでも移動し、其処で接した
新たなものは直ちにそれを受け入れる包容性です。それで日本民族は「初物喰い」であ
ると評されますが、物質的にも精神的にも利益と幸福とを追求し、改良のためには旧い
ものに固執せず、改善の努力を払い、受け入れたものを忽ち自家薬篭中の物としてしま
います。そのため日本人は古来創造性に欠けていると云われる反面、模倣性が強い。包
容した後、自身の要求に合わせた第二次的な創造に長タけているのが特徴です。水耕耕作
を受容するとまず狩猟生活を放棄し、次いで漁撈生活を従属的地位に置き、専ら農耕生
活主体に急変せしめたのも、韓族によって文字が伝播するとそれを採用し数百年を経ず
してそれを日本的に音標文字とし、更に仮名文字をそれから発明しました。また儒教が
入り、仏教が伝わっても、それらを直ぐ日本人の生活に適したものに改善し、日本人的
儒教・日本人的仏教にしてしまいました。これこそ日本民族の包容性です。
 
〈平和性〉
 第四には平和性が指摘されます。一般に日本民族は戦闘的で、古来好戦的な性格を持
つと誤られがちです。特に騎馬民族征服王朝説のような学説が出ますと、益々そうした
誤解が強められるでしょう。中世以降の長いわが国の封建社会が武士の時代であり、そ
の時代傾向として尚武の思考が強調されます。しかし尚武即好戦ではありません。確か
に神話・伝説の類にも戦争の物語は多い。しかし日本人が戦争を起こすのは、万やむを
得ないときに干戈を執りました。戦争は出来るだけ避け、平和的手段を尽くし、やむな
く戦争に入るときでも、まず機智を用いた策略を使い、敵の抵抗力を失わせる手段を講
じて、最後まで戦争突入を防ごうと努めます。干戈を交える武力戦は最終手段でした。
腕力よりも智力優先、これが日本人の常套手段でした。出雲の国譲神話は好戦性を否定
し、平和性を象徴する最たる神話です。日本人の平和を愛好する精神は、それ故に文弱
に堕することはありませんでした。平和性と一見矛盾するとみられる尚武の思想は、平
和が破壊されたときには断固として武力を以て平和を守るのに吝ヤブサかではありません
でした。侵略のための戦闘ではなく、平和維持のための戦闘には、「みつみつし久米の
子が、頭椎クブツツイ・石椎イシツツイ持ち、撃ちてし止まん」の歌に象徴される勇敢を要求され
たのです。
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