51c 日本の歴史と神話・伝説
 
〈地震鯰ナマズと都市伝説〉
 長者の現実化と云う点で将門の存在は、歴史と民俗との境界を往来する事例となって
います。近年、民俗学上大写しクローズアップされている都市伝説の分野は、都市社会で語ら
れる噂話や世間話の凝縮したものであり、特に都市生活者の意識や行動を探る上で注目
されています。その一例として、十九世紀の大都市であった江戸の世相を反映した地震
鯰は、大地震と云う災厄が、地底の大鯰によってもたらされ、次の段階で世直しが生ず
ると云う民俗信仰をよく示している内容です。
 わが国の地震鯰は、地震の神話の中に位置付けられる内容を持っています。鯰は淡水
魚で、わが国を含む東アジア一帯に広く分布し、人口に膾炙カイシャしています。かつ地下
の魚が大地震を起こすと云う俗信も、インドネシアからわが国に分布し、わが国はその
魚が鯰になっている点が特徴です。大林太良の分類に依りますと、(a)世界牛が動くと地
震が起きる。(b)世界を支える蛇が動くと地震が起きる。(c)世界魚が動くと地震が起き
る。(d)大地を支える神・巨人が動くと地震が起きる。(e)世界を支える柱・紐を動かす
と地震が起きる。(f)男女の神の性交により地震が起きる。(g)地震が起きると「我々は
未だ生きている」と叫び地震を止めさす。以上です。
 
 わが国の国土の下に鯰がいて、それが動くと地震が起こると云う口碑は、明らかに地
震鯰を指しており、(c)の分類に属しています。しかし江戸時代初期には、日本列島は龍
蛇に囲まれ、その首尾の重なった部分に、鹿島の神が要石を打ち込んでいると云う古図
が描かれていて、この場合、世界魚より世界蛇の範疇に属しているのです。これらは、
伊勢暦を始め、江戸の人々が利用した暦注の書である大雑書などの表紙に描かれたもの
で、地震鯰の存在が暦と関わることを示しています。
 天保テンポウ年間に入って、龍か鯰か区別が付きにくい絵が、次第にはっきり鯰顔となっ
たところで、安政アンセイ大地震の「鯰絵」が纏マトめられました。一方、江戸の俳諧・川柳
・歌舞伎の題材として、地震鯰が採り入れられるようになりました。「大地震つづいて
龍やのぼるらん」「長十丈の鯰なるらん」と云った符合は、延宝エンポウ七年(1679)の作
であり、このことから、中国の五帝龍王に取って代わってわが国の鯰に変化したのは、
江戸の俳諧師たちの洒落の感覚によるものと気谷誠が指摘しています。
 
 鯰絵に描かれた大鯰の巨大化した怪獣の姿は、日本人の伝統的な世界観から生じたも
のと云えるでしょう。それは海の彼方から訪れて来る異形の像イメージであり、海上の道で
ある黒潮に添って、幸運がもたらされると云う伝統的な民俗信仰に基づいていました。
 一方、「もの言う魚」の伝説があります。土地の古い池や沼から鯰を捕って担いで帰
る途中、鯰が声を出す。驚いて池にそれを戻してしまう。無理に持ち帰ると、雷鳴が轟
き大雨が降ってくる。或いは大鯰が人間に化けて、いろいろと問い掛けて災厄を知らせ
ようとする。結果として大鯰は殺され、腹の中から人間から貰った粟飯や団子が出て来
て、人々は大鯰の存在を知ると云った筋です。こうした大鯰の出現は、天変地異の前兆
であるとする信仰が、この伝説の基本ベースにあります。
 
 鯰は水神の神使であると云う信仰のほかに、その姿形から擬人化され易く、身近に見
る鯰の敏感な動作から、自然に神の予言や託宣を予測すると云う想像力が働いたものと
思われます。この信仰は江戸に限らず、九州の阿蘇山、佐賀の河上神社、滋賀県琵琶湖
の竹生島などにも縁起として語られているのです。
 取り分け鹿島神宮の地震鯰は著名であり、江戸人の都市伝説として普及したのでした。
この場合、鹿島神宮が剣に相当する要石と云う柱によって、大鯰の首尾をがっしりと押
さえ込むと云う見本モデルは、先の大林の分類では、「世界柱」にも類似しているでしょ
う。巨人や神が柱で地面を押さえていて、その柱の根元に巨大な蛇がいると云う神話は、
フィリピンのミンダナオ島の神話にあります。先祖神が一本の天柱と共に住み、その根
っこの部分に大蛇が伴われています。もし神が天柱を揺すると大地震が起きると云いま
す。このフィリピンと黒潮で結ばれている鹿島信仰の地震鯰にも同様の主題モチーフがあり、
伊勢神宮の心シンの御柱ミハシラにも、地下に龍蛇を押さえている信仰の断片が残っていまし
た。
 以上のように神話から伝説への合理化の過程プロセスは、時代性による説明付けなのであ
り、それを捉えることが神話の伝説化にとって重要な基準なのです。
                            (原執筆者:宮田登氏)

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