51b 日本の歴史と神話・伝説
 
〈長者伝説と将門伝説〉
 ところで若い女性を数多く雇い、地域の広大な田を所有している長者に纏マツわる伝説
は全国的に分布しています。長者の具体的な存在を、史実として捉えようとする郷土史
の研究成果もあります。確かに伝説では、かつてこの地に強大な長者が住み栄えていま
した。その屋敷址などがあり、埋められた財宝伝説なども伴っています。「朝日さす夕
日かがやく木の下に黄金萬両漆萬杯」などの口碑も残されていますが、更に特徴的なの
は、長者の家筋が水神の加護を受けていることで、其処には長者の娘の異類婚姻譚が示
されています。水神に嫁入りしたことによって、長者の家は水源を管理し、地域開発の
指導者リーダーとして活躍することになります。また朝日や夕日のような太陽を制御コントロール
する能力を示すと云う伝説があります。これは、かつて長者の家が太陽信仰の司祭者と
して位置付けられていたことの痕跡かも知れません。
 
 代表的な長者譚として、鳥取県湖山長者の事例を挙げてみます。現存する湖山池は、
元は広大な水田であり、長者が支配していました。長者の屋敷は小高い山上にあり、そ
の周囲は全て大水田ばかりでした。毎年田植えは長者の威力により、一日で終わらせて
しまいます。領地の男女が全て集合し、この大きな水田の田植えを行うからでした。或
年、田植えがとうしても終わらなくなりました。太陽が沈みかけたとき、長者は屋敷の
一番高い処に上がり、金色の大きな扇を広げて、夕日を招き返そうとしました。そして
長者の力によって、太陽は運行を止め、後戻りしたので、田植えも一日以内で完了でき、
人々はすっかり恐れ入ってしまいました。しかし、翌朝全ての田は水没してしまい、大
きな池となりました。長者はそのため、没落してしまいます。多くの長者たちの没落の
原因は、人知の限りを尽くした長者が、超自然的領域に踏み込んで、その力に敗れるこ
とを告げています。そのことは、超自然的な力に拮抗し得る力が、人間側の代表である
長者に備わっていたことを示唆していると云えましょう。それは水神の加護によって水
利・潅漑を管理する力が与えられていたことと、太陽を祀ることにより、時間・暦を管
理すると云うものではなかったかと想像されます。長者は、地域社会住民の生活意識や
行動を律する能力を持っていた存在として描かれています。
 
 私(執筆者)は別に、こうした長者の機能に、日知り、日読み、日和見と云った要素
を見出し、「日和見王」と云う名称で地域の小王=長者を王権論の中に位置付けようと
試みたことがあります。と云うのは、長者譚が単なる夢想の出来事で、想像力の産物と
するだけではなく、現実の社会・文化と深く関わっているのではないかと予想したから
でした。
 東日本に多い、平将門伝説なども、分析して行きますと、興味深い点に気付かれるで
しょう。これまでの研究では、将門伝説の基底に、御霊信仰があると見られています。
尤も知られている将門首に纏マツわる話は、既に『平治物語』の記事に表現され、首その
ものが怨念の篭もる身体部分と見なされ、死後も御霊の付着した「モノ」として恐れら
れていましたが、これは当時遺体処理に関わったと思われる念仏聖の影響によるのでし
ょう。特に首や顳かみコメカミとか眼の部分が、霊力とし結び付いていたようです。念仏聖
は、遺体を葬るに当たって、首、胴、足、手、耳などを切り離し、怨念が一体化しない
ように慰霊したのです。
 
 将門伝説では御霊のほかに、大日や妙見信仰など太陽や星に対する信仰が結び付いて
います。将門が七人の影武者を持っていたと云う伝説は、妙見菩薩の加護を受け、北斗
七星の「七」の聖数を重んじていた妙見信仰の要素に因ります。また将門が大日塚を崇
拝していた伝説もあります。将門は毎朝日の出とともに丘の上の大日堂に行き、太陽を
拝んだと云います。『取手市史』民俗編には、将門の愛人の一人桔梗御前も矢張り日の
出とともに太陽を拝んでいた女性であり、彼女の住んだ屋敷を朝日御殿、その周囲の田
圃を桔梗田と呼んでいました。桔梗は将門の敗死を知り、御殿を出て近くの池に身を投
じたところ、やがて池を中心に水田が出来たと云います。将門は長者であり、桔梗の前
身は、長者に仕える若い女性として位置付けられる類型的な主題になっています。
 将門は現実には東国の小王であり、実際地方在住の土豪なのでした。『将門記』には、
「将門を再拝して便ち印鎰インヤクをささげ、地に跪きて授け奉る」とあり、西の「本天皇
」と対照的に扱われています。東国の王として、本天皇と結び付いた地方国司たちは、
将門によって追放されてしまい、朝属の印として印鑑を捧げられています。古代の神政
の呪具である亀甲は新たに設けられ、左右大臣、納言、参議等の文武百官などの官僚組
織が発足し、新王朝の体制を整えようとしていました。内印である天皇御璽や外印であ
る太政官印が備えられることは、位階の権威を保持することを意味しました。しかし将
門王朝において、陰陽寮の暦博士だけは設置されなかったと云います。即ち天皇が制定
する暦が無い訳で、このことをわざわざ『将門記』が記していることは、将門王朝の性
格を暗示していることになります。伝説の世界では、長者としての将門は太陽や星を祀
ることにより、時間を律する力を持ち、地域の小王としての権威を保持することが出来
ましたが、実際には暦日博士の機能を持たなかった訳ですから、精神秩序においては本
天皇に拮抗出来なかったことが示されているのです。
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